2016年09月29日

【千葉県】駒木 諏訪神社(諏訪之宮)

2016年5月3日参詣
千葉県流山市駒木655番地 鎮座

通称「おすわさま」と呼ばれ親しまれています。
大同2年(807年)9月に、信州諏訪大社より高市皇子(天武天皇の皇子)の子孫が大和(現在の奈良県)より下向し分祀・創建されたといわれています。
祭神は、健御名方富命を祀っていて、敷地1万坪の境内は杉の大木に囲まれた静寂な環境です。
東京ドームが約1万4千坪ということなので、それを思うと広さが実感できますかね。

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大きな馬の銅像
これは、源義家(八幡太郎)が朝廷の命を受け、奥州追討へ向う途中、神社へ参詣し、戦勝を祈願。
そして奥州での平定を終え都へ帰る途中、再びここに詣でて神恩に感謝し、神馬と馬具を奉献したというエピソードからのようです

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境内のうっそうとした森は、巨木に歴史を感じ、若い木々には無限の発展を感じます。
身が引き締まり、やがて癒されていきました。

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ご祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)

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「諏訪神社」は昔から、子供の成長の神、安産の神様として地域の熱心な信仰を集め、特に「子供の神さま」として名高い。それ故に子連れの参拝者が多く見られました。

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御朱印を受け取る際、宮司さんが大麻を振って、お祓いしてくださいました。
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2016年09月28日

トイレの神様

野田・桜木神社のトイレはとても綺麗です
境内摂社の川屋神社には埴山姫神(はにやまひめのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)が祀られており、その手入れの行き届いたトイレは「汚してはいけない」という気持ちになります。

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※櫻木神社宮司のつぶやき事にとても良いことが書かれていたので抜粋致しました。
植村花菜さんという女性シンガーが歌う「トイレの神様」がヒットチャートに上っています。この歌は彼女と彼女のおばあちゃんとの思い出をつづった歌です。

♪♪♪・・・
トイレにはそれはそれはキレイな
女神さまがいるんやで
だから毎日キレイにしたら女神さまみたいに
べっぴんさんになれるんやで

その日から私はトイレを
ピカピカにし始めた
べっぴんさんに絶対なりたくて
毎日磨いた
♪♪♪・・・

トイレの神様とは厠(かわや)神のことをいいます。厠(かわや)は「川屋」であり「交屋」という解釈もあります。それはセッチン様、ウスシマさん、オヌシ様、チョズバ様、オシラ様、オタナ様などなど地方によって呼び方もそれぞれ違います。
この神様は男女神だったり、女神だったり、はたまた裸すがたの神、手がない神といった姿で登場してきます。

民俗学的にトイレとはどのような場所であったのだろうか。考えてみるとたいへん興味深いことがわかります。

ある地方では大晦日、トイレの神様にお供えをして共に食をとり年取りを行うそうです。またある村では妊婦がトイレのそうじをするとキレイな赤ちゃんが生まれるといういい伝えがあります。また「雪隠(せっちん)参り」といってお七夜に赤ちゃんの成長を願ってトイレに参る風習があります。

トイレは普通、家の裏側に位置し、暗い場所、汚い所といったネガティブなイメージがあります。しかしはたしてそれだけでしょうか。前述の年取りや雪隠参りなどからすると必ずしもそうとは限らないようです。

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一説には、トイレは境界として捉えられています。
それは此岸と彼岸の境界です。そこに座す神様(境界神)がトイレの神様です。

彼岸という異界との交流がうまくいかないと災いが生じます。

「そうじをする」 とは 異界との交流を円滑にするということかも知れません。

そうじをすることで秩序が更新されます。
それは精神の活性化であり、事態を転換させることであり、再生させるということです。
つまり時間と次元の転換なのです。否定性を肯定性に転換させる場であり、社会的生活秩序を実現する場という意味をも持ちます。
(桜木神社・宮司さん談)

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2016年09月27日

千葉県野田市最古の神社『櫻木神社』

2016年5月3日参詣
千葉県野田市桜台210 鎮座

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創建は仁寿元年(851)です。藤原北家隆盛の礎を築いた藤原冬嗣の三男、藤原嗣良がこの地に移り住んだ時、美しい櫻の大木があり、この木のもとに神殿を建立したのが始まりです。この事から、古くより櫻の宮と称されていたそうです

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なんと!飛び出し坊やがお出迎え!!


ハッピーウェディング
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結婚式の真っ最中にお邪魔してしまいました。

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どうぞお幸せに!

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 ↑桜木神社HPよりの写真
神前式もいいものですね

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通常御朱印は2種類あります。どちらも「櫻木神社」と書いてあって押してある判が違います

限定御朱印がある神社でして、それが狙いの方々はHPをチェックしておくようですね

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△桜木神社の御朱印・桜印版

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△桜木神社の御朱印・通常版

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2016年09月24日

下野國 安住神社(全国バイク神社認定第1号)

2016年9月24日参詣
塩谷郡高根沢町上高根沢2313 鎮座

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約2年ぶりの再訪となりました。
向かう途中の車の中では土砂降りの雨でしたが、不思議な事に神社駐車場に着くと雨はやんでくれました。

前回とは雰囲気が違っていました。
それはバイク神社を全面的に押し出した感じです。

2016年年9月8日より頒布された100冊限定御朱印帳
好評で追加されたバイク神社御朱印帳(写真右側)まだ ありました。
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2014年10月4日の前回参拝
 ↑ クリック


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ヘルメットをかぶった、沢山のてるてる坊主か可愛いですね


頒布の由緒書リーフレットより
事称、(899年・昌泰二年)、宇多上皇行幸『扶桑略記』醍醐天皇、八十嶋祭を行う『日本紀略・江家次第』
事称、当神社に残る書物には、平安初期・平安中期・第六十代醍醐天皇(昌泰二年・899年)に住吉大社の御分霊を頂き住吉信仰を、この地に新井吉明(あらいよしあき)が勧請したと社伝されています。
この地に勧請した由来は(事柄)であるが、住吉信仰を全国の地に広めることだったのではないだろうかということが言えます。

もともと安住神社は安産祈願の神様として栃木県では名が知られています。
最近は日本初の「認定」バイク神社、それからヘリポートを作ってドクターヘリの着陸ができるようにしたり、防衛省からヘリコプターのお祓いを依頼されたりと、話題には事欠かない神社となっています。


安産祈願で有名だけあり「子宝育神社」
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昭和五十七年(1982年)には、朱塗りの大鳥居(明神鳥居)を建立
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平成二年(1990年)には、創祀1100年祭を迎え神門を建立
黄金狛犬となっている。
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昭和57年(1982年)から続く年末の恒例行事で、もち米約八俵でつきあげた役500kgのジャンボ鏡餅を神前に奉納します。当初はもち米三俵分の鏡餅でしたが、年々増え続け、現在八俵になりました。
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平成9年から神社の御神田で収穫されたもち米を使用しています。

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2016年09月23日

頼政神社(茨城県古河市)

2016年5月3日参詣
茨城県古河市錦町9-5 鎮座

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一の鳥居

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二の鳥居

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拝殿

治承4年(1180)、源頼政は平家と宇治で戦ったが、利あらず自刃した。
そのとき従者に遺言して「我が首を持ち諸国をまわれ、我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。その時その場所へ埋めよ」といった。
従者は、諸国をめぐって下総国古河まできて休息した。再び立とうとしたが、その首が急に重くなって持ち上がらなかった。不思議に思ったが、遺言どおりその地に塚を築いた。これが頼政郭だという。

この場所は古河城内南端にあたり竜崎郭(たつざき ぐるわ)ともいったが、明治時代末に渡良瀬川改修工事のため削り取られて川底になってしまうことから、現在の地に移された。その時、神社跡から古墳の副葬品と思われる金環・管玉(くだたま)・小玉・矢の根・大刀の断片が発掘され、現在は社宝として保存されている(市指定文化財)。

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清和源氏で従三位まで行った武将、鵺(ぬえ)を退治した源頼政の首塚
他の頼政神社にも同様の伝承があるようです。岐阜県関市の蓮華寺にある首塚も有名ですね。

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2016年09月21日

中之嶽大国神社(群馬県)

中之嶽大国神社(なかのたけおおくにじんじゃ)
2016年4月29日参詣
群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1248 鎮座

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妙義山中之嶽神社の境内には中之嶽大国神社(なかのたけおおくにじんじゃ)があり、金色の日本一大きい大黒天が鎮座しています。
大黒天は小槌持っているのが一般的ですが、ここの大黒天は剣を持っている珍しい姿です。

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何故剣を持っているかは、不動明王と大黒天が習合した姿と言われる説、中之嶽神社の神宝が剣であることから、剣を持ってという説があります。

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高校野球球児の聖地甲子園球場。
甲子の年(1924年・大正13年)に完成した為、甲子園球場と名付けられました。

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そして、大黒天の縁日が甲子(きのえね)の日ということで甲子大国神社(きのえねおおくにじんじゃ)ともいい、特に甲子の日にお参りすると、御利益があるといわれております。

その甲子繋がりということで中之嶽大国神社は野球の神様としても有名なのです。
ご利益巡りの原点の1つ 息子の野球での活躍! かねてから、行ってみたいと思っていた神社でありました。

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2016年09月20日

妙義山 中之嶽神社

中之嶽神社(なかのたけじんじゃ)
2016年4月29日参詣
群馬県甘楽郡下仁田町上小坂1248 鎮座

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妙義山の昔は有料道路であった山岳ルートを走り、最高地点に近いところに神社はあります。 森林公園のさくらの里に隣接していて、里が満開を過ぎた頃、やや遅めの開花を迎えていました。

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社殿は長く急勾配の階段の上に建立され背後にある轟岩を御神体とする為、拝殿(明治時代再建、入母屋、銅板葺、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝)と幣殿のみの社殿形式になっていて古代からの巨石(岩)信仰の名残が見られます。

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日本武尊が東征の際、妙義山に登嶽したことにちなみ、第29代欽明天皇の時代に妙形氏によって創建されたと伝わる。江戸時代には小幡藩の鎮守社とされた。

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奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、日本屈指の山岳美と讃えられている。

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2016年09月18日

子なまず 御守(板倉雷電神社)

上州・板倉の雷電さまにお参りしたら、ナマズを食べずに帰れない!として有名です。
付近で食べられるナマズの刺し身、天ぷら、煮物は、お酒ともよく合って美味です。ナマズは板倉地方にとって昔からの神の賜物。
雷電神社にある「なまずさん」は、なでると地震を除けて、元気回復、視力改善、自信が湧き出るとして、親しまれております。ここだけのナマズの御守もあります。
なまずさんの分身『子なまず』さんを授かりました。

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「子なまず」のお守り。黄金の子なまず

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「子なまず」の懐御守。結構可愛いお守りです。

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表面に描かれてるのは「なまずさん」をキャラクター化したものでとてもキュート。
裏面にはその後ろ姿が描かれ面白い。
大きさはかなり小型であるが、このサイズが故にこのキャラが立つのだろう。他の色として朱色も有り。


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2016年09月17日

妙義神社(富岡市)

2016年4月29日参詣
群馬県富岡市妙義町妙義6番地 鎮座
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鎮座する妙義山は上毛三山(赤城山:赤城神社・榛名山:榛名神社・妙義山:妙義神社)の1つで、後に日本三大奇勝、日本百景に数えられる程、特異な景観で古くから山岳信仰や自然崇拝的な信仰の対象として広く知られる存在でした。

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妙義神社の創建は537年と言われています。妙義山の古名が「波己曾(はこそ)山」で、昔は「波己曾神社」と呼ばれ、その頃のご祭神は「波己曾大神」。もともとは社はなく現在の本社の北側にある「影向(ようごう)岩」がその磐座であったといわれます。しかし「波己曾大神」から「妙義大権現」になった経緯など、はっきりとしたことはわかっていません。

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時代とともに山の呼び名は変わりました。そして「権現」とは仏が神の姿をして現れたもの。そこから推測すると、神仏習合による変化とも考えることができます。

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神仏習合であった証として、明治初期までは「石塔寺」と称するお寺があり、神仏分離令により廃寺となりましたが、現在もその名残が見られます。165段の急な階段の先に赤い随神門がありますが、その先が旧神域。手前までが旧石塔寺の領域です。

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2016年09月15日

平将門の怨霊

平将門の呪い
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崇徳天皇、菅原道真、平将門という非業の死を遂げた歴史上の3人を日本三大怨霊と呼んでいます。
その中の平将門は、古代の朝敵から中世の崇敬対象、そして明治時代の逆賊視から戦後の英雄化と、時代と共に評価が変わる興味深い人物です。
更に興味深いのは、現代でも将門の祟りが恐ろしいと噂されていることなのです。

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時代は平安時代まで遡ります。

平安時代後期、当時の地方行政はそれぞれの国司に任されていたため、国司は横領など悪事のやり放題であったことから治安も悪化し、その対処として桓武平氏や清和源氏などの武士が現れたのです。

将門の祖父は、上総国の国司として赴任したのですが、任期後も居座り武士団を形成して勢力を拡大していきます。
しかし、将門の父の死をきっかけに相続争いが勃発し、将門は叔父を殺害し、従弟の平貞盛の引渡しを断った常陸国府をも攻撃し、勢いに乗じた将門は、他の国府にも攻撃をはじめたのです。
合戦では、反りを持った最初の日本刀を作らせたとも云われる将門の武器力と、豊富な馬を利用した騎馬隊を駆使した機動力で、瞬く間に関東八ヶ国の国府を攻撃し、各国司を追放してしまいます。
これが「平将門の乱」で、私事で始まった戦いが、国家反逆の戦いになり、その揚句、自ら『新皇』と称して、真っ向朝廷と対立姿勢を取ったのです。
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朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、謀反者・将門を討つべく軍を出立させるが、朝廷軍が到着する前に将門のいとこである平貞盛と
藤原秀郷
が連合軍を結成。将門を討ち取った。
奮戦した将門も、どこからか放たれた矢に額を貫かれ、あっけなく死んでしまったという。

戦いに敗れた将門の身体は、現在の茨城県坂東市の延命院に埋葬されましたが、首は平安京に運ばれ都大路の河原に晒されました。
歴史上記録されている最も古い晒し首が将門であります。

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将門の首は3ヶ月経っても全く腐ることなく夜な夜な不気味に怪しく発光しながら「体を返せ!もう一戦してやる」と叫び、人々をおののかせたという。
そしてある夜、夜空へと舞い上がり、切り離された胴体を求めて東の空へ飛んで行った。しかし首と胴体が出会うまであとわずか、というところで力尽き、地上に落下した。
その首が落ちた最も著名な伝承地が、千代田区大手町にある『将門の首塚』なのです。
晒されていた場所の周辺では変事が続き、流行り病など地域の民に祟りを及ぼした。
それを聞いた高僧・空也上人は、祠を建てて将門の首を祀り手厚く供養。これにより祟りは治まり、その祠が現在の京都神田明神の前身となっています。

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首の飛来は怨念の強調で、実際は将門所縁の者が首桶に首級を納め、現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀ったのが始まりで、この観音堂は“津久戸明神”と称されました。
この“津久戸明神”が後の千代田区九段にある「築土神社」で、戦前まで将門の首級を納めた首桶、将門の肖像画、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていたのですが、戦災で焼失し、現在はその写真が残っているだけでだそうです。

将門の首が祀られていたとされる築土神社の参拝記事
  ↑クリック

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歌川国芳の『相馬の古内裏(ふるだいり)』。相馬の古内裏とは、平安時代の武将、平将門が下総国相馬に京都の御所を模して建てた屋敷のこと。将門は乱を起こすが鎮圧され、相馬の古内裏も焼かれて廃屋となっていた。
ところが、将門の娘の滝夜叉姫が父の遺志を果たそうと妖術を使って仲間を募り、古内裏に夜な夜な妖怪が出没するようになった。そこで武術に長けた大宅太郎光圀が退治に出向き、骸骨に襲われる場面だ。

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