2024年06月06日

宇都宮城址公園 御城印

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栃木県
宇都宮城址公園に行ってきました
御城印もあります

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宇都宮城を築いたのは、藤原秀郷とも藤原宗円とも言われており、時代は平安時代後期と考えられています

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中世(鎌倉時代から戦国時代)の城主であった宇都宮氏は、鎌倉幕府の有力な御家人であるとともに、京都ともつながりが深く、5代頼綱(よりつな)(蓮生・れんしょう)は百人一首の成立にも深くかかわっていました。

日本中が戦乱に巻き込まれた南北朝時代から戦国時代、このころの宇都宮城は敵の攻撃に備えるため、堀と土塁を幾重にもめぐらせた守りの堅い城になっていきました。

宇都宮城をめぐっての戦いも行なわれ、城下町が焼かれたこともありました。


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約500年間宇都宮を支配してきた宇都宮氏は、豊臣秀吉に滅ぼされ、近世(江戸時代)には譜代大名の居城となりました。その中でも本多正純(ほんだまさずみ)は、城と城下町の大改造を行い、今日の宇都宮の中心市街地の骨格を作り上げたと言われています。

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将軍が日光にお参りする日光社参(にっこうしゃさん)。宇都宮城は将軍の宿泊場所となり、本丸には将軍のための御成御殿(おなりごてん)が建てられました。日光社参は幕府の威信をかけた大事業であり、城も城下町も大変なにぎわいだったと言われています。

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宇都宮城は1868年の戊辰(ぼしん)戦争で建物の大半が焼失しました。堀も次第に埋められて、当時の面影をしのぶものはほとんどなくなりました。

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建物などの復元にあたっては、絵図面などの資料調査や発掘調査の結果を基に検討

復元する時代は、資料が多く残っており、本丸御殿などが存在していた江戸時代の中ごろとし、資料で明確にわからない部分については、宇都宮城と同様に徳川幕府の関与が強かった大阪城や二条城、小田原城などの実例を参考にしたそうです。

posted by かめ忍者 at 20:14| 栃木 ☁| Comment(0) | 御城印 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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