2017年(平成29年)7月30日参詣
茨城県那珂市額田北郷417 鎮座
社号標
鹿嶋八幡神社ですが「額田神社」の社号標
地元では額田神社と呼ばれてるようです(詳細は由緒紹介のところにて)
参道途中にあるヤマザクラの老樹
樹齢400年〜500年とされ、「茨城桜見立番付」において、西の横綱に選定された名桜である。落雷で大枝が切断されているが、樹勢は衰えをみせていない。
鳥居
手水舎
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿
扁額
明治元年に奉納、揮毫は水戸学で有名な会沢正志斎によるものだそうです。
本殿本殿(右 鹿嶋社 左 八幡社)
神社の名前の通り、以前には鹿嶋宮と八幡宮とが別々にあり、江戸時代に合祀され、現在のような形になったようです。
御祭神は鹿嶋宮が武甕槌命、八幡宮が誉田別命を祀ります。
由緒として、鹿嶋宮が平城天皇の御代西暦806年(元号でいうと延暦二十五年か大同元年でしょうか?)に御祭神である武甕槌命を奉遷します。後に佐竹氏の祖である佐竹昌義が本殿を造営します。
八幡宮は康平六年(1063年)八月に、源頼義が前九年の役を平定して帰京する途中、西馬場の地に勧請し戦勝を謝し、永保元年(1081年)に源義家が境内や参道を修造したとのことです。後に佐竹義直により再建されます。
慶安元年(1648年)には徳川家光公より鹿嶋宮へご朱印地十五石、八幡宮へは二十石が授けられます。
元禄七年(1694年)徳川光圀公が八幡宮と鹿嶋宮を合祀し社殿を改築、額田神宮の称を賜ります。
これは所謂水戸藩の「八幡改め」の一環として行われたことかと思いますが、名称自体は「額田鹿嶋八幡宮」が正式であったようで、二年後の元禄九年にも神社名称が変更されますが、これも「額田鹿嶋八幡神社」と八幡の名称は残っていたようです。それだけ有力な八幡神社だったのかなと考えることも出来そうです。
ちなみにこの八幡改めの際に整理されなかった八幡宮は、当時水戸藩にあった105社の内4社だけで、水戸八幡宮(水戸)、若宮八幡宮(常陸太田)、馬場八幡宮(常陸太田)、安良川八幡宮(高萩)のみでした。
明治に入ると村社に列格し、社名も鹿嶋八幡神社に改められますが、以上の由来から地元では額田神社と呼ばれることが多いようです。
社務所(写真)が閉まっていたので御朱印は宮司さん自宅にて頂きました
御朱印




