神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号 鎮座
江の島は神奈川県藤沢市に有る湘南海岸から突き出た島で、そこに鎮座している神社
島へ渡るには、車道の『江の島大橋』と歩道の『江の島弁天橋』2つの橋が架かっています。もとは木製の橋でしたが、1964年の東京オリンピックのヨット競技に合わせ完成。
社号標
青銅の一の鳥居
1747年に造営され、1821年に沢山の人々の寄進によって再建
かつてこの鳥居は江の島参道の三ノ鳥居で他に2つの鳥居がありましたが、現存しているのはこの鳥居だけです。
朱の二の鳥居
朱の鳥居は江戸時代に造られました。現在の鳥居は、1936年(昭和11年)に山田流筝曲の家元である林敏子さんの寄進によって再建されたものです。
江島神社案内図
☆江の島の三女神
江島神社は、
『奥津宮』(オクツミヤ)
『中津宮』(ナカツミヤ)
『辺津宮』(ヘツミヤ)
の三社からなる神社です。
ご祭神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)が須佐之男命(スサノオノミコト)と誓約を行った時に生まれた、宗像三女神(ムナカタサンジョシン)、三姉妹の女神様です。
この三女神を『江島大神』と呼ばれていましたが、神仏集合により『弁財天女』とされ『江島弁財天』として信仰されています。
手水舎
「辺津宮」拝殿
高低差の有る江島神社の中で一番下に位置している事から昔は、『下之宮』と呼ばれていました
「辺津宮」扁額
「辺津宮」本殿
ご祭神は、三女神の中の『田寸比賣命』(タギツヒメノミコト)をお祀りしています
「奉安殿」
「奉安殿」(ほうあんでん)辺津宮の左手に有る八角のお堂で、源頼朝が奉納したとされる「八譬弁財天」(はっぴべんざいてん)と『日本三大弁財天』の一つとして有名な裸弁財天の「妙音弁財天」(みょうおんべんざいてん)が安置されています。
「奉安殿」内は撮影禁止なので、有名な裸弁財天の「妙音弁財天」はお土産屋にあった人形をUP
※日本三大弁財天
竹生島神社(滋賀県琵琶湖)
厳島神社(広島県宮島)
江島神社(神奈川県)
「辺津宮」の裏にある鳥居
「中津宮」へ
「中津宮」拝殿
古くは『上之宮』と呼ばれていました
「中津宮」扁額
「中津宮」本殿
ご祭神は、『市寸島比賣命』(イチキシマヒメノミコト)で、三女神の中でも格別美しい神様だそうです
「奥津宮」の鳥居
「奥津宮」社殿
古くは、『本宮』または『御旅所』(オタビショ)と呼ばれていました。
ご祭神は、三女神の一番上の姉神で有る『多紀理比賣命』(タギリヒメノミコト)です
拝殿の天井に描かれている「八方睨みの亀」
江戸の絵師、酒井抱一によって描かれました。こちらは模写で、本物は社務所に保管されているそうです。
龍宮(わだつみのみや)
1993年(平成5年)に奥津宮隣の岩屋本宮の真上に有志によって建立されました。
岩屋本宮
龍神伝説発祥の地
533年に欽明天皇(きんめいてんのう)の勅命により江の島の南にある洞窟に宮を建てたのが始まりといわれています。当時は神と仏は一体であるという神仏習合の考え方が一般的だったため、神社ではなく金亀山与願寺という寺院でした。
その後、814年に空海が岩屋に本宮を造り、853年には慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建します。1206年には、慈覚上人良真が鎌倉幕府三代将軍の源実朝に願って下之宮(辺津宮)を造りました。
江島神社に弁財天信仰を持ちこんだのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝です。頼朝は平家打倒を願って岩屋に参拝し、八臂弁財天と鳥居を奉納しました。戦国時代になると江の島の弁財天は戦いの神として東国の戦国武将に信仰されるようになります。
江戸時代になり戦いが無くなると、弁財天は芸能上達や金運向上の神様として信仰されるようになりました。1600年には徳川家康も弁財天に参拝しています。江戸時代中頃になると庶民の信仰も集めるようになり、東の弁財天信仰の中心地として大いに栄えました。
明治時代に神仏分離令が発布され、金亀山与願寺は宗像三女神(むなかたさんめがみ)を祀神をする江島神社になります。弁財天は辺津宮の奉安殿に移されました
辺津宮にある社務所にて御朱印を頂きました
江島神社 御朱印
弁財天 御朱印




