真大山大聖寺(しんたいさん だいしょうじ)
2018年(平成30年)2月17日参詣
埼玉県越谷市相模町6丁目442 鎮座
越谷レイクタウの近くにある大相模不動尊大聖寺に行って来ました
寺号標
大相模不動尊の象徴ともいえるのが境内の入口にある山門
江戸時代の正徳五年(1715年)に建造され文化元年(1804年)に再建
明治28年(1895年)に大聖寺が大火災に見舞われたさいに唯一焼け残ったのがこの山門です。
参道
手水舎
ぴんころ地蔵尊
鐘楼
本堂
大聖寺の宗派は真言宗豊山派
本尊は不動明王
安置されている不動明王像は、奈良東大寺の開山で知られる名僧・良弁僧正(りょうべんしょうぞう)が彫刻したもの(諸説あります)
寺伝によると、天平勝宝2年(750)に奈良東大寺の開山で知られている良弁僧正が自作の不動明王を祀って開基されました。
中世には不動院と称し、岩槻城主太田資正や北条氏繁等の篤信を受けて栄え、天正19年(1591)当山に宿泊された徳川家康から寺領60石を賜り、このときに現寺名の「大聖寺」に改めたと云われています。
慶長5年(1600)に、下野小山(栃木県小山氏)から引き返して、関ヶ原へ向かう途中、戦勝を祈願して太刀一振り寄進したと伝えられています。
本堂の賽銭箱の上から吊るされている鐘の後ろには七福神が描かれた木の額が三枚飾られています。
御朱印の受付は本堂の受付
御朱印のお布施は300円
受付時間は午前9時から午後4時ごろまでで、御朱印が書ける住職さんが不在の場合は書き置きした御朱印になります。
御朱印
2018年05月27日
2016年11月28日
子ノ権現 天龍寺(飯能)
大鱗山 雲洞院 天龍寺(通称・子ノ権現)ねのごんげん
2016年11月26日参詣
埼玉県飯能市南461 鎮座
武蔵野三十三観音 第三十二札所
関東百八地蔵尊 第十番札所
足腰に不安がある方は、お車での参拝をお勧めします。西武池袋線の飯能駅、または、西武秩父線の東飯能駅から、タクシーで約40分です。足腰が丈夫な方は、西武秩父線の吾野駅か西吾野駅から、ハイキング道を徒歩で約90分です。
茶店の並ぶ参道の奥に、赤い鳥居が立つ。
鳥居を抜けると黒門が見えてきます
黒門
子ノ聖は、出羽三山を始め、諸国で修行し、当地に至った。
山に入るときに、悪鬼に邪魔をされ、火を放たれたが、十一面観音が天龍の姿となって現れて雨を降らし、火を消した。
このことにより、子の山山頂に至った子ノ聖は、十一面観音を祀って、寺の名を天の龍の寺、「天龍寺」としたそうです。
露座の仁王像は稀有な存在
本堂
角大師や豆大師の護符で親しまれる「厄除元三大師」・十一面観音・不動明王様等が合祀
本尊様へ履物を奉納し、各自の願をかける慣しがあります
重さ2tの鉄のワラジ
子ノ聖が、「我、魔火のために腰より下に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。」と言い遺していることから、足腰に験あらたかであるとされ、願いを立てるにあたっては、本堂に履物を供えるのが倣いとなった。そのシンボルとも言うべき存在が、この鉄の草鞋です。
本坊
茅と杉皮で葺かれた屋根は圧巻。
大黒柱は楓の大木が使われているらしいです。
天長9年(832)の子の年、子の月、子の日、子の時刻に生まれ7歳で仏門に帰依した子ノ聖が、延喜11年(911)に創建した。
その後、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇め、子ノ聖大権現社を建立されました。
御朱印は、本坊にある授与所にて頂きました
2016年11月26日参詣
埼玉県飯能市南461 鎮座
武蔵野三十三観音 第三十二札所
関東百八地蔵尊 第十番札所
足腰に不安がある方は、お車での参拝をお勧めします。西武池袋線の飯能駅、または、西武秩父線の東飯能駅から、タクシーで約40分です。足腰が丈夫な方は、西武秩父線の吾野駅か西吾野駅から、ハイキング道を徒歩で約90分です。
茶店の並ぶ参道の奥に、赤い鳥居が立つ。
鳥居を抜けると黒門が見えてきます
黒門
子ノ聖は、出羽三山を始め、諸国で修行し、当地に至った。
山に入るときに、悪鬼に邪魔をされ、火を放たれたが、十一面観音が天龍の姿となって現れて雨を降らし、火を消した。
このことにより、子の山山頂に至った子ノ聖は、十一面観音を祀って、寺の名を天の龍の寺、「天龍寺」としたそうです。
露座の仁王像は稀有な存在
本堂
角大師や豆大師の護符で親しまれる「厄除元三大師」・十一面観音・不動明王様等が合祀
本尊様へ履物を奉納し、各自の願をかける慣しがあります
重さ2tの鉄のワラジ
子ノ聖が、「我、魔火のために腰より下に傷を負い悩めることあり、よって、腰より下に病ある者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん。」と言い遺していることから、足腰に験あらたかであるとされ、願いを立てるにあたっては、本堂に履物を供えるのが倣いとなった。そのシンボルとも言うべき存在が、この鉄の草鞋です。
本坊
茅と杉皮で葺かれた屋根は圧巻。
大黒柱は楓の大木が使われているらしいです。
天長9年(832)の子の年、子の月、子の日、子の時刻に生まれ7歳で仏門に帰依した子ノ聖が、延喜11年(911)に創建した。
その後、弟子の恵聖上人が子ノ聖を大権現と崇め、子ノ聖大権現社を建立されました。
御朱印は、本坊にある授与所にて頂きました
2016年11月27日
神仏習合の遺構 竹寺(飯能)
医王山薬寿院八王寺(通称・竹寺)
奥武蔵俳句寺とも
2016年11月26日参詣
埼玉県飯能市南704 鎮座
武蔵野三十三観音霊場の33番札所
車一台が通り抜けるのがやっとの狭い道が、くねくねとカーブを描きながら、急斜面を登って行く。対向車が来たらどうなるだろうか? 超集中しながら竹寺に無事に到着
お寺の略縁起によれば、天安元年(857)、「最澄」の弟子、慈覚大師「円仁」が東国巡修のおりに、疫病の流行を憐れみ、当山を道場として大護摩の秘法を修し、仏像を彫り残した。以後、山岳信仰の道場として歴史を刻んでいる。(従って天台宗になります)
寺院ではあるが、いきなり鳥居が現れる。標柱には「牛頭天王 参道」の文字が刻まれていました。
この竹寺は、神仏習合のお寺として知られています。
明治維新の際には、標高490メートルという奥武蔵の深山にあったことと、修験道が盛んで神仏習合に寛容だった土地柄であったこともあり、神仏分離を免れたのだと云います。
ここは”奥武蔵俳句寺”としても知られ、境内には俳人の句碑が多くのこされています。また境内には樹齢400年「太田道灌」が植えたといわれる高野槙(コウヤマキ)も茂っています。また竹寺といわれるだけあって周辺には竹が多く茂っています。
トーテムポール
牛頭明王の像。平成4年に中国の人達から寄贈されたもの
銘板には天王ではなく”明王”とされているのは仏教の関係ですね。
観音堂
聖観世音が祀られており、武蔵野観音の三十三番結願寺
弁天堂
本地堂(瑠璃殿)
竹の鳥居
鳥居に茅の輪を潜って牛頭天王宮へ向かう
まさに神社の装い
牛頭天王本殿
本坊
予約すれば精進料理が味わえる。(予約はこちら→042-977-0108)
自然の恵みである薬草を素材とした薬膳ですが、春(3月〜6月)と秋(9月〜12月)、住職の法話をお聞きしながら楽しめるものです。
またぶらりと訪れた場合でも「蕎麦膳」を楽しむ事ができます。
授与品の数々
この場所にて庶民将来の御守りと御朱印を賜りました。
武蔵野三十三観音霊場の33番札所の御朱印
御朱印にも神仏習合の文字
奥武蔵俳句寺とも
2016年11月26日参詣
埼玉県飯能市南704 鎮座
武蔵野三十三観音霊場の33番札所
車一台が通り抜けるのがやっとの狭い道が、くねくねとカーブを描きながら、急斜面を登って行く。対向車が来たらどうなるだろうか? 超集中しながら竹寺に無事に到着
お寺の略縁起によれば、天安元年(857)、「最澄」の弟子、慈覚大師「円仁」が東国巡修のおりに、疫病の流行を憐れみ、当山を道場として大護摩の秘法を修し、仏像を彫り残した。以後、山岳信仰の道場として歴史を刻んでいる。(従って天台宗になります)
寺院ではあるが、いきなり鳥居が現れる。標柱には「牛頭天王 参道」の文字が刻まれていました。
この竹寺は、神仏習合のお寺として知られています。
明治維新の際には、標高490メートルという奥武蔵の深山にあったことと、修験道が盛んで神仏習合に寛容だった土地柄であったこともあり、神仏分離を免れたのだと云います。
ここは”奥武蔵俳句寺”としても知られ、境内には俳人の句碑が多くのこされています。また境内には樹齢400年「太田道灌」が植えたといわれる高野槙(コウヤマキ)も茂っています。また竹寺といわれるだけあって周辺には竹が多く茂っています。
トーテムポール
牛頭明王の像。平成4年に中国の人達から寄贈されたもの
銘板には天王ではなく”明王”とされているのは仏教の関係ですね。
観音堂
聖観世音が祀られており、武蔵野観音の三十三番結願寺
弁天堂
本地堂(瑠璃殿)
竹の鳥居
鳥居に茅の輪を潜って牛頭天王宮へ向かう
まさに神社の装い
牛頭天王本殿
本坊
予約すれば精進料理が味わえる。(予約はこちら→042-977-0108)
自然の恵みである薬草を素材とした薬膳ですが、春(3月〜6月)と秋(9月〜12月)、住職の法話をお聞きしながら楽しめるものです。
またぶらりと訪れた場合でも「蕎麦膳」を楽しむ事ができます。
授与品の数々
この場所にて庶民将来の御守りと御朱印を賜りました。
武蔵野三十三観音霊場の33番札所の御朱印
御朱印にも神仏習合の文字
2016年07月28日
岩槻大師(埼玉県)
光岩山 釈迦院 岩槻大師 彌勒密寺
2016年3月5日参詣
埼玉県さいたま市岩槻区本町2-7-35 鎮座
関東三十六不動霊場の第三十一番札所
開山第一世開成和尚(桓武天皇の兄)が、諸国へ修行の途中、この岩槻の地で疫病に苦しむ人々に出会い、それらを救われ、この地で発見された金色の弥勒菩薩を安置して宝亀5年(774)に創建されたと伝わっています。
大同2年(807)弘法大師の諸国巡錫の折り、本尊の大日大聖不動明王を始め、東方守護の降三世明王、南方守護の軍荼利明王、西方守護の大威徳明王、北方守護の金剛夜叉明王を彫像、五大力尊として安置し、岩槻第一の古刹として隆盛を極めました。
鎌倉時代には、北条氏の崇敬を得て、藤原吉次鋳造の梵鐘や妙澤筆の不動明王・制多迦童子・今迦羅童子の三福の掛け軸を寄進され、これらは寺宝として伝わっています。
江戸時代には、徳川家康が日光東照宮に葬られたあと、御本尊が北向きに動いたと伝わり、日光御成街道沿いでもあることから、江戸の街と東照宮を護る仏として、「北向不動」と称されるようになり、現在では、人々の喜び多かれとの願いに応えるため「喜多向き不動」として親しまれています。
地下仏殿には、四国八十八カ所の御本尊とお大師様を勧請し、各霊場寺院から請来したお砂を奉安しているため、お遍路巡拝の道場として広く伝えられています
2016年3月5日参詣
埼玉県さいたま市岩槻区本町2-7-35 鎮座
関東三十六不動霊場の第三十一番札所
開山第一世開成和尚(桓武天皇の兄)が、諸国へ修行の途中、この岩槻の地で疫病に苦しむ人々に出会い、それらを救われ、この地で発見された金色の弥勒菩薩を安置して宝亀5年(774)に創建されたと伝わっています。
大同2年(807)弘法大師の諸国巡錫の折り、本尊の大日大聖不動明王を始め、東方守護の降三世明王、南方守護の軍荼利明王、西方守護の大威徳明王、北方守護の金剛夜叉明王を彫像、五大力尊として安置し、岩槻第一の古刹として隆盛を極めました。
鎌倉時代には、北条氏の崇敬を得て、藤原吉次鋳造の梵鐘や妙澤筆の不動明王・制多迦童子・今迦羅童子の三福の掛け軸を寄進され、これらは寺宝として伝わっています。
江戸時代には、徳川家康が日光東照宮に葬られたあと、御本尊が北向きに動いたと伝わり、日光御成街道沿いでもあることから、江戸の街と東照宮を護る仏として、「北向不動」と称されるようになり、現在では、人々の喜び多かれとの願いに応えるため「喜多向き不動」として親しまれています。
地下仏殿には、四国八十八カ所の御本尊とお大師様を勧請し、各霊場寺院から請来したお砂を奉安しているため、お遍路巡拝の道場として広く伝えられています
2016年06月16日
亀通山 行田院 大長寺(埼玉県)
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