櫻川磯部稲村(さくらがわいそべいなむら)神社
2017年(平成29年)11月18日参詣
茨城県桜川市磯部772 鎮座
「秋の桜川さんぽ」(クリック)なるイベント期間に足を運びました
前回2015年8月1日以来の櫻川磯部稲村神社参拝(クリック)です
社号標
鳥居
手水舎
狛犬
室町時代の作とされる狛犬で、県の文化財に指定されている
拝殿
扁額
本殿
創建は景行天皇40年(111年)10月、日本武尊が伊勢神宮荒祭宮礒宮を現在地に移祀したのが始まりと伝えられています。
磯部大明神とも称された。平安時代、仁明天皇の嘉祥2年(849年)、水旱の際に桜川の源である折鏡ヶ池において祈雨祭が執行された。
式内社ともされるが、当地を「稲村神社」が属する久慈郡とするには無理がある。ともかく、天慶2年(939年)には平貞盛が平将門追討を祈願した。
江戸時代初期、第108代後水尾天皇(在位:1611年-1629年)による礒部大明神の勅額が下賜され、これが現存する。
特に古来より安産守護神として崇敬され、神札が授与される。御祭神は現在までに下記の通りで、12柱中8柱が女神で、比率が高く、安産信仰が生まれたか。
天照皇大神・栲幡千々姫命・瀬織津姫命・木花佐久耶姫命・天太玉命・玉依姫命・天手力雄命・玉柱屋姫命・天宇受売命・倭姫命・天児屋根命・日本武尊。
要石
一説に、鹿島神宮の要石は凹形で、当地が鹿島の神領だった縁もあり、鹿島神宮の要石は鯰の頭を押さえ、当社のは尾を押さえ、地震を防いでいると伝わる。
ただし、鹿島神宮とよく対となって語られる香取神宮の要石も凸形で、鹿島神宮の要石と対応している。
「秋の桜川さんぽ」限定御朱印
2018年02月09日
2018年01月23日
胎安神社 11月の御朱印(茨城県かすみがうら市)
胎安(たやす)神社
2017年11月4日参詣
茨城県かすみがうら市(旧千代田町)西野寺434 鎮座
前回2016年4月16日の胎安神社参拝
鳥居
石鳥居
神門
手水舎
前回の参拝時は灯籠だけでしたが、今回は寄進されたばかりの真新しい狛犬がいました
拝殿
扁額
本殿
御祭神は「経津主命」と、相殿に梅宮大社の御分霊として胎内安全の神、「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っています。胎内安全、安産育子の神様として知られる神社です。
延喜式神名帳(927年)に記載される夷針神社の論社で、創建は奈良時代の天平宝字6年(763年)と伝えられています。
御神木(子持ち松)
石(子)を抱いた珍しい松です。残念ながら明治時代に枯れてしまったそうですが、それでもお参りにくる方は絶えないようです。
社務所にて御朱印をいただきました
御朱印
御朱印ブームで参拝者が増えて月替わりでお花のスタンプを捺すようになったそうです
2017年11月4日参詣
茨城県かすみがうら市(旧千代田町)西野寺434 鎮座
前回2016年4月16日の胎安神社参拝
鳥居
石鳥居
神門
手水舎
前回の参拝時は灯籠だけでしたが、今回は寄進されたばかりの真新しい狛犬がいました
拝殿
扁額
本殿
御祭神は「経津主命」と、相殿に梅宮大社の御分霊として胎内安全の神、「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀っています。胎内安全、安産育子の神様として知られる神社です。
延喜式神名帳(927年)に記載される夷針神社の論社で、創建は奈良時代の天平宝字6年(763年)と伝えられています。
御神木(子持ち松)
石(子)を抱いた珍しい松です。残念ながら明治時代に枯れてしまったそうですが、それでもお参りにくる方は絶えないようです。
社務所にて御朱印をいただきました
御朱印
御朱印ブームで参拝者が増えて月替わりでお花のスタンプを捺すようになったそうです
2018年01月19日
新治神社(茨城県かすみがうら市)
2018年01月04日
太宮神社(茨城県かすみがうら市)
2017年(平成29年)11月4日参詣
茨城県かすみがうら市安食1071 鎮座
神社の名称は「おおみやじんじゃ」ですが、漢字は「大宮神社」ではなく「太宮神社」と書きます
社号標
鳥居
手水
狛犬
拝殿
扁額
書かれている部分が削れているようです
本殿
祭神は太宮売命、武甕槌命、経津主命、高皇産霊命、神皇産霊命、天照大神、国常立尊、邇邇芸命、国狭槌命、天忍穂耳命の10柱。
806年(大同元年)の創建とされる古社
かすみがうら市安食の歴史は、北ノ坊の太宮神社によって伝えられていることが多いようです。『新治地区神社誌』(新治地区神社誌編集委員会編纂、1992年)によると、大同元年(806年)1月2日創建という由緒があります。
「この地はもと安食氏領であったが、永享七年に梶原氏知行地となり、更に菅谷氏領に変わった。(略)佐竹氏の南三十三館討伐の戦に菅谷氏は滅亡し当社も荒廃した。(略)元禄三年九月瑞垣完工、同四年の徳川光圀公の参拝の折に、神主に種々下問があったのに対し、『古来大宮』社号のことを答申し、改めて、安食、柏崎、岩坪、堂山、成井横町五ヶ村の総社とする広命があった。」
(『新治地区神社誌』)
注 永享七年:1435年、元禄三年:1690年
御朱印は拝殿左側にある社務所で書いて貰えます
朱印
先代が手彫りにて作成したそうです
御朱印
通常は1種類の印を押すそうですが、立派な御朱印帳だし遠方から来ていただいたから特別全種類押しますね!と気前のいいお言葉^^
茨城県かすみがうら市安食1071 鎮座
神社の名称は「おおみやじんじゃ」ですが、漢字は「大宮神社」ではなく「太宮神社」と書きます
社号標
鳥居
手水
狛犬
拝殿
扁額
書かれている部分が削れているようです
本殿
祭神は太宮売命、武甕槌命、経津主命、高皇産霊命、神皇産霊命、天照大神、国常立尊、邇邇芸命、国狭槌命、天忍穂耳命の10柱。
806年(大同元年)の創建とされる古社
かすみがうら市安食の歴史は、北ノ坊の太宮神社によって伝えられていることが多いようです。『新治地区神社誌』(新治地区神社誌編集委員会編纂、1992年)によると、大同元年(806年)1月2日創建という由緒があります。
「この地はもと安食氏領であったが、永享七年に梶原氏知行地となり、更に菅谷氏領に変わった。(略)佐竹氏の南三十三館討伐の戦に菅谷氏は滅亡し当社も荒廃した。(略)元禄三年九月瑞垣完工、同四年の徳川光圀公の参拝の折に、神主に種々下問があったのに対し、『古来大宮』社号のことを答申し、改めて、安食、柏崎、岩坪、堂山、成井横町五ヶ村の総社とする広命があった。」
(『新治地区神社誌』)
注 永享七年:1435年、元禄三年:1690年
御朱印は拝殿左側にある社務所で書いて貰えます
朱印
先代が手彫りにて作成したそうです
御朱印
通常は1種類の印を押すそうですが、立派な御朱印帳だし遠方から来ていただいたから特別全種類押しますね!と気前のいいお言葉^^
2017年10月13日
鹿嶋八幡神社(茨城県那珂市)
鹿嶋八幡神社(かしまはちまんじんじゃ)
2017年(平成29年)7月30日参詣
茨城県那珂市額田北郷417 鎮座
社号標
鹿嶋八幡神社ですが「額田神社」の社号標
地元では額田神社と呼ばれてるようです(詳細は由緒紹介のところにて)
参道途中にあるヤマザクラの老樹
樹齢400年〜500年とされ、「茨城桜見立番付」において、西の横綱に選定された名桜である。落雷で大枝が切断されているが、樹勢は衰えをみせていない。
鳥居
手水舎
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿
扁額
明治元年に奉納、揮毫は水戸学で有名な会沢正志斎によるものだそうです。
本殿本殿(右 鹿嶋社 左 八幡社)
神社の名前の通り、以前には鹿嶋宮と八幡宮とが別々にあり、江戸時代に合祀され、現在のような形になったようです。
御祭神は鹿嶋宮が武甕槌命、八幡宮が誉田別命を祀ります。
由緒として、鹿嶋宮が平城天皇の御代西暦806年(元号でいうと延暦二十五年か大同元年でしょうか?)に御祭神である武甕槌命を奉遷します。後に佐竹氏の祖である佐竹昌義が本殿を造営します。
八幡宮は康平六年(1063年)八月に、源頼義が前九年の役を平定して帰京する途中、西馬場の地に勧請し戦勝を謝し、永保元年(1081年)に源義家が境内や参道を修造したとのことです。後に佐竹義直により再建されます。
慶安元年(1648年)には徳川家光公より鹿嶋宮へご朱印地十五石、八幡宮へは二十石が授けられます。
元禄七年(1694年)徳川光圀公が八幡宮と鹿嶋宮を合祀し社殿を改築、額田神宮の称を賜ります。
これは所謂水戸藩の「八幡改め」の一環として行われたことかと思いますが、名称自体は「額田鹿嶋八幡宮」が正式であったようで、二年後の元禄九年にも神社名称が変更されますが、これも「額田鹿嶋八幡神社」と八幡の名称は残っていたようです。それだけ有力な八幡神社だったのかなと考えることも出来そうです。
ちなみにこの八幡改めの際に整理されなかった八幡宮は、当時水戸藩にあった105社の内4社だけで、水戸八幡宮(水戸)、若宮八幡宮(常陸太田)、馬場八幡宮(常陸太田)、安良川八幡宮(高萩)のみでした。
明治に入ると村社に列格し、社名も鹿嶋八幡神社に改められますが、以上の由来から地元では額田神社と呼ばれることが多いようです。
社務所(写真)が閉まっていたので御朱印は宮司さん自宅にて頂きました
御朱印
2017年(平成29年)7月30日参詣
茨城県那珂市額田北郷417 鎮座
社号標
鹿嶋八幡神社ですが「額田神社」の社号標
地元では額田神社と呼ばれてるようです(詳細は由緒紹介のところにて)
参道途中にあるヤマザクラの老樹
樹齢400年〜500年とされ、「茨城桜見立番付」において、西の横綱に選定された名桜である。落雷で大枝が切断されているが、樹勢は衰えをみせていない。
鳥居
手水舎
狛犬(阿形)
狛犬(吽形)
拝殿
扁額
明治元年に奉納、揮毫は水戸学で有名な会沢正志斎によるものだそうです。
本殿本殿(右 鹿嶋社 左 八幡社)
神社の名前の通り、以前には鹿嶋宮と八幡宮とが別々にあり、江戸時代に合祀され、現在のような形になったようです。
御祭神は鹿嶋宮が武甕槌命、八幡宮が誉田別命を祀ります。
由緒として、鹿嶋宮が平城天皇の御代西暦806年(元号でいうと延暦二十五年か大同元年でしょうか?)に御祭神である武甕槌命を奉遷します。後に佐竹氏の祖である佐竹昌義が本殿を造営します。
八幡宮は康平六年(1063年)八月に、源頼義が前九年の役を平定して帰京する途中、西馬場の地に勧請し戦勝を謝し、永保元年(1081年)に源義家が境内や参道を修造したとのことです。後に佐竹義直により再建されます。
慶安元年(1648年)には徳川家光公より鹿嶋宮へご朱印地十五石、八幡宮へは二十石が授けられます。
元禄七年(1694年)徳川光圀公が八幡宮と鹿嶋宮を合祀し社殿を改築、額田神宮の称を賜ります。
これは所謂水戸藩の「八幡改め」の一環として行われたことかと思いますが、名称自体は「額田鹿嶋八幡宮」が正式であったようで、二年後の元禄九年にも神社名称が変更されますが、これも「額田鹿嶋八幡神社」と八幡の名称は残っていたようです。それだけ有力な八幡神社だったのかなと考えることも出来そうです。
ちなみにこの八幡改めの際に整理されなかった八幡宮は、当時水戸藩にあった105社の内4社だけで、水戸八幡宮(水戸)、若宮八幡宮(常陸太田)、馬場八幡宮(常陸太田)、安良川八幡宮(高萩)のみでした。
明治に入ると村社に列格し、社名も鹿嶋八幡神社に改められますが、以上の由来から地元では額田神社と呼ばれることが多いようです。
社務所(写真)が閉まっていたので御朱印は宮司さん自宅にて頂きました
御朱印
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