楯縫(たてぬい)神社
2017年(平成29年)6月3日参詣
茨城県稲敷郡美浦村郷中2988(旧信太郡木原村) 鎮座
古名は信太郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。美浦村信太にも同名の楯縫神社がある。
社号標
一の鳥居
神社、狛犬(村指定文化財)の説明板
二の鳥居
手水舎
拝殿
拝殿と手前には御神木なのでしょうか立派な杉
(扁額はありませんでした)
本殿
社伝によると、推古天皇十六年(608)の創祀
御祭神の普都主命(ふつぬしのみこと)が、この地で兜楯を脱いで置いていったことから「楯脱ぎ」、それが転化して「楯縫(たてぬい)」の由来になったそうです。
鎮座の年代は、一説には神武天皇十八年とも、元明天皇和銅元年とも。
古来、信太郡一の宮として崇敬され、境内北の方に、杉の巨木の根幹(径六メートル)があって「木原」の地名の起りともなったという。
由緒書き説明板
拝殿の賽銭箱前に貼り紙
これで宮司さん宅が分かり、御朱印を頂きに行きました
社殿左手の階段をくだり宮司さん宅へ
宮司さん宅にて御朱印を頂きました
御朱印
2017年08月05日
2017年08月03日
大杉神社 あんばさま(茨城県稲敷市)
大杉(おおすぎ)神社
2017年(平成29年)6月3日参詣
茨城県稲敷市阿波958 鎮座
社号標
神社裏の駐車場にある看板
一の鳥居
一の鳥居脇に天狗の顔の石像
「ねがい天狗」
「かない天狗」
参道の先に二の鳥居、両脇には大きな灯篭
神門
手水舎
楼門
現在もとても優美な社殿になっているのだが、それでもかつての社殿には及ばないとされる。
享保十三年(1716年)に消失する以前の社殿は、現在の優美な社殿を遥かに量がする豪華絢爛なものだったと云われており「あんば参れば日光見るに及ばず」と言われるほどであったという。
楼門の先に拝殿 その参道に足跡
拝殿
現在の社殿はとても新しく見えるが、社殿自体は文化十二年(1816年)に再建されたもの。
平成の大修理によって彩色が行われ、現在の優美な社殿となった。
扁額
社殿を覆う壁に綺麗な彫刻群
本殿
創建は神護景雲元年(767年)奈良の大神神社を出立した勝道上人が日光開山の途上に立ち寄り、御神木であった杉の大木に三輪明神を祀ったのが始まりとされる。
【由緒書より】
大杉神社はかつて「アンバ神」あるいは「アンバに坐す神社」と称されておりました。後に神霊が巨杉に宿ることから「大杉神社」と称されるようになりましたが、多くの人々は愛着を込めて「アンバ様」と称するようになりました。「アンバ神」は房総半島北部域から茨城県東南部一帯を支配していた「ウナカミの王」のを祀る「日の神様」であり、霞ヶ浦・利根川流域・印旛沼・手賀沼・小貝川流域・鬼怒川下流域・牛久保を包含して余りある、いわゆる常総内海の守り神であり、旧小見川町一帯を本拠地とした「ウナカミの王(後の菟上国造)の最も重要視した神社でありました。
後に「悪魔祓のアンバ様」と称されるように、生活万般の厄難を消除する御利益から、厄除・八方除、星除、空亡除(天中殺、大殺界除)の神様として多くの方々の祈祷が毎日のように行われております。
日本唯一夢むすび大明神の名がますように又夢叶えの神社として多くの方々が正五九参りにおとずれております。
沢山の境内社がある大杉神社ですが、私的に勝馬神社に注目
説明板
古くは「馬櫪社」といい、当社とは別の独自の古い由緒を持ち、馬体守護のため貞観四年(862年)に創建、その後、平安時代末期に当社へ遷座
平成十四年(2002年)に、荒廃した社殿を再建し、現在の「勝馬神社」と改めた。
かつては別当寺「安穏寺」裏に競馬場があり、昭和初期まで奉納競馬が行われていたり、現在も車から15分ほどの距離にJRAの美浦トレーニングセンターがあるため、そちらの関係者が祈願に訪れるそうです。
境内社 勝馬神社
御朱印は授与所にて頂きました
御朱印
2017年(平成29年)6月3日参詣
茨城県稲敷市阿波958 鎮座
社号標
神社裏の駐車場にある看板
一の鳥居
一の鳥居脇に天狗の顔の石像
「ねがい天狗」
「かない天狗」
参道の先に二の鳥居、両脇には大きな灯篭
神門
手水舎
楼門
現在もとても優美な社殿になっているのだが、それでもかつての社殿には及ばないとされる。
享保十三年(1716年)に消失する以前の社殿は、現在の優美な社殿を遥かに量がする豪華絢爛なものだったと云われており「あんば参れば日光見るに及ばず」と言われるほどであったという。
楼門の先に拝殿 その参道に足跡
拝殿
現在の社殿はとても新しく見えるが、社殿自体は文化十二年(1816年)に再建されたもの。
平成の大修理によって彩色が行われ、現在の優美な社殿となった。
扁額
社殿を覆う壁に綺麗な彫刻群
本殿
創建は神護景雲元年(767年)奈良の大神神社を出立した勝道上人が日光開山の途上に立ち寄り、御神木であった杉の大木に三輪明神を祀ったのが始まりとされる。
【由緒書より】
大杉神社はかつて「アンバ神」あるいは「アンバに坐す神社」と称されておりました。後に神霊が巨杉に宿ることから「大杉神社」と称されるようになりましたが、多くの人々は愛着を込めて「アンバ様」と称するようになりました。「アンバ神」は房総半島北部域から茨城県東南部一帯を支配していた「ウナカミの王」のを祀る「日の神様」であり、霞ヶ浦・利根川流域・印旛沼・手賀沼・小貝川流域・鬼怒川下流域・牛久保を包含して余りある、いわゆる常総内海の守り神であり、旧小見川町一帯を本拠地とした「ウナカミの王(後の菟上国造)の最も重要視した神社でありました。
後に「悪魔祓のアンバ様」と称されるように、生活万般の厄難を消除する御利益から、厄除・八方除、星除、空亡除(天中殺、大殺界除)の神様として多くの方々の祈祷が毎日のように行われております。
日本唯一夢むすび大明神の名がますように又夢叶えの神社として多くの方々が正五九参りにおとずれております。
沢山の境内社がある大杉神社ですが、私的に勝馬神社に注目
説明板
古くは「馬櫪社」といい、当社とは別の独自の古い由緒を持ち、馬体守護のため貞観四年(862年)に創建、その後、平安時代末期に当社へ遷座
平成十四年(2002年)に、荒廃した社殿を再建し、現在の「勝馬神社」と改めた。
かつては別当寺「安穏寺」裏に競馬場があり、昭和初期まで奉納競馬が行われていたり、現在も車から15分ほどの距離にJRAの美浦トレーニングセンターがあるため、そちらの関係者が祈願に訪れるそうです。
境内社 勝馬神社
御朱印は授与所にて頂きました
御朱印
2017年08月01日
日先神社(茨城県土浦市右籾)
日先(ひのさき)神社
2017年(平成29年)6月3日参詣
茨城県土浦市右籾2202 鎮座
社号標
鳥居
由来石碑
(由緒:現地案内板より)
大喜五年源頼義、義家父子の軍団奥州に向かう途中当地に宿営。夜霊夢ありて、この地で賊徒平定の大祈願祭を厳修した。
康平元年(一〇五八年)十一月其処へ社殿を創建、丸四天権現宮と尊称武甕槌命、経津主命、
衡立船戸大神の三神を鎮斎した。丸四天権現宮は何時しか摩利支天さまと俗称された。
明治四年日光神社と改称後に、日先神社と改める。
明治五年右籾、摩利山新田、中村、中村西根、乙戸、荒川沖、荒川本郷、沖新田、以上八ヶ村の村社となる。
昭和二十七年十月六日宗教法人設立。
古来諸災病難消除の神として、戦時中は武神として信仰されている。
参道
手水舎
狛犬
拝殿(正面より)
拝殿(左斜めより)
拝殿(右斜めより)
扁額
拝殿内
拝殿内にある奉納された品物の数々
本殿
祭神・武甕槌神、経津主神、衝立船戸神
明神鳥居(裏門)
御手洗池跡
御朱印は宮司さん宅にて頂きました
御朱印
2017年(平成29年)6月3日参詣
茨城県土浦市右籾2202 鎮座
社号標
鳥居
由来石碑
(由緒:現地案内板より)
大喜五年源頼義、義家父子の軍団奥州に向かう途中当地に宿営。夜霊夢ありて、この地で賊徒平定の大祈願祭を厳修した。
康平元年(一〇五八年)十一月其処へ社殿を創建、丸四天権現宮と尊称武甕槌命、経津主命、
衡立船戸大神の三神を鎮斎した。丸四天権現宮は何時しか摩利支天さまと俗称された。
明治四年日光神社と改称後に、日先神社と改める。
明治五年右籾、摩利山新田、中村、中村西根、乙戸、荒川沖、荒川本郷、沖新田、以上八ヶ村の村社となる。
昭和二十七年十月六日宗教法人設立。
古来諸災病難消除の神として、戦時中は武神として信仰されている。
参道
手水舎
狛犬
拝殿(正面より)
拝殿(左斜めより)
拝殿(右斜めより)
扁額
拝殿内
拝殿内にある奉納された品物の数々
本殿
祭神・武甕槌神、経津主神、衝立船戸神
明神鳥居(裏門)
御手洗池跡
御朱印は宮司さん宅にて頂きました
御朱印
2017年07月28日
静神社(茨城県那珂市)
2017年(平成29年)5月28日参詣
茨城県那珂市静2 鎮座
社号標
静(しず)神社は延喜式神名帳に記載された名神大社
かつては東国三守護神(鹿島神宮・香取神宮・静神社)として信仰を集めたそうです。
一の鳥居
一の鳥居をくぐると手水舎
二の鳥居
参道の階段を上ると神門が見えてきます
神門前にいる狛犬
神門前の手水舎
境内内から見た神門
拝殿
本殿
創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せる。
嘉祥三年(850年)に奉幣の記録が残されており、それ以前の創建になると考えられています
当社の鎮座地周辺は当社を中心として神社が三社、寺院が七社の一大霊場を形成していたそうです
現在社宝として伝わっている「銅印」は奈良時代の作と言われ、「静神宮印」と彫られています。この時代"神宮"と呼ばれていたのは、伊勢と鹿島、香取、石上だけであったので、相当重要な神社であった事は確かのようです
鹿島神宮、香取神宮と共に、東国三守護神として崇敬を集め、豊臣氏や徳川氏から寺領の寄進があったことも記録されています
本殿右手からは末社の「手接足尾神社(てつぎあしおじんじゃ)」への参道が続きます
「手接足尾神社」は昔から手と足腰の安全、健康の守護神としての信仰が厚く、祈願の際に「手差し」や「草履」を供えて願をかける習慣が残っているそうです。
授与所にて御朱印を受けました
御朱印
茨城県那珂市静2 鎮座
社号標
静(しず)神社は延喜式神名帳に記載された名神大社
かつては東国三守護神(鹿島神宮・香取神宮・静神社)として信仰を集めたそうです。
一の鳥居
一の鳥居をくぐると手水舎
二の鳥居
参道の階段を上ると神門が見えてきます
神門前にいる狛犬
神門前の手水舎
境内内から見た神門
拝殿
本殿
創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せる。
嘉祥三年(850年)に奉幣の記録が残されており、それ以前の創建になると考えられています
当社の鎮座地周辺は当社を中心として神社が三社、寺院が七社の一大霊場を形成していたそうです
現在社宝として伝わっている「銅印」は奈良時代の作と言われ、「静神宮印」と彫られています。この時代"神宮"と呼ばれていたのは、伊勢と鹿島、香取、石上だけであったので、相当重要な神社であった事は確かのようです
鹿島神宮、香取神宮と共に、東国三守護神として崇敬を集め、豊臣氏や徳川氏から寺領の寄進があったことも記録されています
本殿右手からは末社の「手接足尾神社(てつぎあしおじんじゃ)」への参道が続きます
「手接足尾神社」は昔から手と足腰の安全、健康の守護神としての信仰が厚く、祈願の際に「手差し」や「草履」を供えて願をかける習慣が残っているそうです。
授与所にて御朱印を受けました
御朱印
2017年07月25日
石船神社(茨城県城里町)
石船神社(いしふねじんじゃ)
2017年(平成29年)5月28日参詣
茨城県東茨城郡城里町岩船606 鎮座
式内社(小社)
社号標(昭和47年の新しい社号標)
鳥居
参道の途中に社号標
これが昔の社号標らしい(延書式内社、旧村社)
鳥居をくぐった先の参道の右側(岩船川が流れている)にありました。
手前、石の上の石燈籠 奥にある、大きな石がしめ縄で祀られていたのが、どうもこれが八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」らしいです
山深い所にあるので社殿がいつ出てくるか不安でした
拝殿が見えたときはホッとしました
神橋の正面に拝殿
なかなか神秘的な雰囲気を感じまして、いろんな角度から拝殿を撮影してしまいました
扁額
拝殿内部には、依り代の大きな鏡
拝殿後方、上がったところに瑞垣に囲まれたご神体の巨石があります
この神社のご神体である「兜石」瑞垣のせいで全体を見るのは難しいし、草で覆われているので石の形は不明
創祀年代は不詳、貞観元年(859年)という説もある。
拝殿の左脇にも大きな石がありしめ縄で飾られていました。これが船形をしているので、へこみにたまった水をすくって、雨乞いに使われたという石でしょうか?
御朱印
2017年(平成29年)5月28日参詣
茨城県東茨城郡城里町岩船606 鎮座
式内社(小社)
社号標(昭和47年の新しい社号標)
鳥居
参道の途中に社号標
これが昔の社号標らしい(延書式内社、旧村社)
鳥居をくぐった先の参道の右側(岩船川が流れている)にありました。
手前、石の上の石燈籠 奥にある、大きな石がしめ縄で祀られていたのが、どうもこれが八幡太郎義家が怪物退治の時に放った矢がささったという「矢の根石」らしいです
山深い所にあるので社殿がいつ出てくるか不安でした
拝殿が見えたときはホッとしました
神橋の正面に拝殿
なかなか神秘的な雰囲気を感じまして、いろんな角度から拝殿を撮影してしまいました
扁額
拝殿内部には、依り代の大きな鏡
拝殿後方、上がったところに瑞垣に囲まれたご神体の巨石があります
この神社のご神体である「兜石」瑞垣のせいで全体を見るのは難しいし、草で覆われているので石の形は不明
創祀年代は不詳、貞観元年(859年)という説もある。
拝殿の左脇にも大きな石がありしめ縄で飾られていました。これが船形をしているので、へこみにたまった水をすくって、雨乞いに使われたという石でしょうか?
御朱印
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