子安(こやす)神社
2017年(平成29年)10月28日参詣
千葉県千葉市花見川区畑町2093 鎮座
社号標
一の鳥居から、真っすぐの参道の先に社殿を望む
狛犬
手水舎
拝殿
扁額
本殿
口伝によれば、桓武天皇の延暦年間(782年-806年)、この一帯を支配する豪族により築かれた子安古墳のお山を御神体として、五穀豊穣の神として創祀された。
子安大明神として祀られたが、第60代醍醐天皇の御宇、延喜年間(901年-923年)に奇稲田姫命を勧進して祀る。
左大臣藤原時平(871年-909年)が特に深く崇敬し、霊験著しく安産の守護神として多くの尊崇を得た。
鎮守府将軍村岡陸奥守平良文の八世孫、千葉之介常胤の信仰も篤く、建久3年(1192年)に奥方の懐妊に伴い、家臣八郎時忠を参籠させ、祈願させた。
その神恩感謝のため、翌建久4年(1193年)、千葉常胤は社殿を造営し、祭典を執行した。この際の建久四年九月十七日の棟札が現存するという。
600年ほどの歴史がある下総三山の七年祭り(七年祭)に二宮神社、子守神社、三代王神社とともに最初から参加していた一社で、今でも母役で参加する。
社務所兼自宅にて書置きの御朱印を渡して下さります
初穂料をお尋ねると、「いただいてないんですよ」とのお答え
その分お賽銭をさせていただきました。
「御岩田帯 皇室御献上之宮」などとある御朱印
境内の説明書きによれば大正以降、昭和にかけて宮中御慶事の度毎に御安産の祈願祭を奉営し御岩田帯として御献上奉納した事を栄誉として記載されています。
2017年12月22日
2017年12月20日
芸術的なお墨書き御朱印 子守神社(千葉県千葉市)
子守神社(こまもりじんじゃ)
2017年(平成29年)10月28日参詣
千葉県千葉市花見川区幕張町2丁目990 鎮座
社号標
鳥居
細い道を進み鳥居を車で通らないと、駐車場には行けない
狛犬
手水舎
拝殿
注連縄
本殿
御祭神は稲田姫命・素戔嗚命・大己貴命。
由緒
当神社の創設については不明であるが、最古の記録には次のように書かれている。千葉介平常胤の四男、大須賀四郎平胤信が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築いた。建久四年(1194)五月、源頼朝の命により富士の御狩場に赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られた。その御礼として社殿を造営し、胤信の次男、中須加神太夫平正胤をその社司神家とし、武運長久、五穀豊穣、郷中家内安全並びに氏子家内安全諸祈願をさせた。
当所、馬加城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたが、氏子が浜辺へ移住すると共に、永正五年(1508)現在の地に遷宮した。
当社名は建速素盞嗚命(=素加湯山主弥那佐呂彦八嶋篠尊)の名から「素加天王神社」とされていた。その後、磯出神事の際に祭馬が数多く集まったことから「馬加神社」、磯出神事の役割から「子守神社」となったようです。
境内の大銀杏
社務所にて御朱印を頂ました
御朱印
芸術的なお墨書き御朱印
2017年(平成29年)10月28日参詣
千葉県千葉市花見川区幕張町2丁目990 鎮座
社号標
鳥居
細い道を進み鳥居を車で通らないと、駐車場には行けない
狛犬
手水舎
拝殿
注連縄
本殿
御祭神は稲田姫命・素戔嗚命・大己貴命。
由緒
当神社の創設については不明であるが、最古の記録には次のように書かれている。千葉介平常胤の四男、大須賀四郎平胤信が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築いた。建久四年(1194)五月、源頼朝の命により富士の御狩場に赴く際に当社へ祈願し、良い成果が得られた。その御礼として社殿を造営し、胤信の次男、中須加神太夫平正胤をその社司神家とし、武運長久、五穀豊穣、郷中家内安全並びに氏子家内安全諸祈願をさせた。
当所、馬加城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたが、氏子が浜辺へ移住すると共に、永正五年(1508)現在の地に遷宮した。
当社名は建速素盞嗚命(=素加湯山主弥那佐呂彦八嶋篠尊)の名から「素加天王神社」とされていた。その後、磯出神事の際に祭馬が数多く集まったことから「馬加神社」、磯出神事の役割から「子守神社」となったようです。
境内の大銀杏
社務所にて御朱印を頂ました
御朱印
芸術的なお墨書き御朱印
2017年04月12日
安房国一之宮 洲崎神社(千葉県館山市)
社号について
資料によっては「すのさき」「すさき」とあり、地名は「すのさき」だが、由緒にある通り、元の名は洲神(「すさき」のかみ)であったらしい
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県館山市洲崎1697 鎮座
館山市の西の端、千葉県の先端。まさしく洲の崎という場所です。
場所的に簡単にこれる所じゃないのと、普通に雨が降っていたので参拝者は私1人
社号標
旧 社号標
道から少し入ったところに鳥居があり、道路を走っていると見逃してしまうかもしれない
手水舎
隋身門
厄祓坂と呼ばれる108段の石段
長い階段を上り終え 上からの眺め
拝殿
扁額は奥州白河藩主老中松平定信が参詣し奉納した扁額のレプリカで、本物は社務所で大切に保管されいるそうです。
本殿
祭神 天比理乃当ス
相殿神が天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天富命(あめのとみのみこと)です。
本殿
社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、初代神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃当スが持っていた鏡を御神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。
当社近く、波左間海中公園内の海底に、水難事故・水難事件防止を祈願するために御分霊を勧請して海底神社を創建している。
稲荷神社
本殿脇には金比羅神社
隋身門下のこの机に書置き御朱印がありました。セルフサービス
神門の下に説明書きが置かれていた
書置きの御朱印は置かれていましたが、御朱印帳への記入希望の場合は宮司さん宅までとの事
私は御朱印帳への記入希望のために電話連絡をしてアポをとり宮司さん宅にお邪魔しました。
(東京方面に車で30分位)
御朱印
資料によっては「すのさき」「すさき」とあり、地名は「すのさき」だが、由緒にある通り、元の名は洲神(「すさき」のかみ)であったらしい
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県館山市洲崎1697 鎮座
館山市の西の端、千葉県の先端。まさしく洲の崎という場所です。
場所的に簡単にこれる所じゃないのと、普通に雨が降っていたので参拝者は私1人
社号標
旧 社号標
道から少し入ったところに鳥居があり、道路を走っていると見逃してしまうかもしれない
手水舎
隋身門
厄祓坂と呼ばれる108段の石段
長い階段を上り終え 上からの眺め
拝殿
扁額は奥州白河藩主老中松平定信が参詣し奉納した扁額のレプリカで、本物は社務所で大切に保管されいるそうです。
本殿
祭神 天比理乃当ス
相殿神が天太玉命(あめのふとだまのみこと)と天富命(あめのとみのみこと)です。
本殿
社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、初代神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃当スが持っていた鏡を御神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。
当社近く、波左間海中公園内の海底に、水難事故・水難事件防止を祈願するために御分霊を勧請して海底神社を創建している。
稲荷神社
本殿脇には金比羅神社
隋身門下のこの机に書置き御朱印がありました。セルフサービス
神門の下に説明書きが置かれていた
書置きの御朱印は置かれていましたが、御朱印帳への記入希望の場合は宮司さん宅までとの事
私は御朱印帳への記入希望のために電話連絡をしてアポをとり宮司さん宅にお邪魔しました。
(東京方面に車で30分位)
御朱印
2017年04月07日
安房國一之宮 安房神社(千葉県館山市)
安房(あわ)神社
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県館山市大神宮589 鎮座
安房国の一宮で延喜式名神大社
社号標
一の鳥居
二の鳥居
手水舎
説明板(由緒)
由緒
房総半島の南端神戸郷に鎮り坐す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀唐配祀として奉斎し、摂社下の宮には天富命を祀る。
延喜の制には大社に列せられ、名神祭に預る安房国唯一の由緒深き名社である。
本社の祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に奉仕し祭祀を司どられた重要な神に坐します。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命は天児屋根命と共に大神の出御を祷り遂に再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのである。
安房開拓の神として当社の下の宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられる。天富命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起し、最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本拠を定めて祖神天太玉命の社を立てた後、次第に内地の方に進みこの半島に麻穀を繁殖しその産業地域を拡められたのである。
安房神社の御祭神は日本産業の総祖神として崇められ更に現在では家内安全、交通安全守護神、厄除開運等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。
拝殿
扁額
本殿(上の宮)
主祭神
天太玉命 (アメノフトダマノミコト) 日本の全ての産業創始の神。
下の宮には天太玉命の孫神である天富命(あめのとみのみこと)と兄弟神である天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。
本殿 横から
安房神社の創始は、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。
その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。 この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。
御神水
後ろの吾谷山(あづちやま)から湧き出ているそうです。お水取りをするには受付で申込が必要とのことです。
授与所
オリジナル御朱印帳
御朱印
匠総祖神の朱印が押されています。
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県館山市大神宮589 鎮座
安房国の一宮で延喜式名神大社
社号標
一の鳥居
二の鳥居
手水舎
説明板(由緒)
由緒
房総半島の南端神戸郷に鎮り坐す旧官幣大社安房神社は、天太玉命を主祭神に天比理刀唐配祀として奉斎し、摂社下の宮には天富命を祀る。
延喜の制には大社に列せられ、名神祭に預る安房国唯一の由緒深き名社である。
本社の祭神天太玉命は中臣氏の祖神天児屋根命と相並んで天照皇大神の側近に奉仕し祭祀を司どられた重要な神に坐します。
天照皇大神が天石窟に御幽居あらせられた時には、天太玉命は天児屋根命と共に大神の出御を祷り遂に再び大御神の天日の如き御威徳を仰ぎ奉られたのである。
安房開拓の神として当社の下の宮に祀らるる天富命は、天太玉命の御孫にあたらせられる。天富命は四国の阿波国忌部族の一部を割いて関東地方に大移動を起し、最初に占拠されたのが房総半島の南端、即ち現在の安房神社の鎮座地であって茲に本拠を定めて祖神天太玉命の社を立てた後、次第に内地の方に進みこの半島に麻穀を繁殖しその産業地域を拡められたのである。
安房神社の御祭神は日本産業の総祖神として崇められ更に現在では家内安全、交通安全守護神、厄除開運等、関東地方随一の神社として信仰が厚い。
拝殿
扁額
本殿(上の宮)
主祭神
天太玉命 (アメノフトダマノミコト) 日本の全ての産業創始の神。
下の宮には天太玉命の孫神である天富命(あめのとみのみこと)と兄弟神である天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。
本殿 横から
安房神社の創始は、神武天皇が初代の天皇として御即位になられた皇紀元年(西暦紀元前660年)と伝えられております。神武天皇の御命令を受けられた天富命(下の宮御祭神)は、肥沃な土地を求められ、最初は阿波国(現徳島県)に上陸、そこに麻や穀(カジ=紙などの原料)を植えられ、開拓を進められました。
その後、天富命御一行は更に肥沃な土地を求めて、阿波国に住む忌部氏の一部を引き連れて海路黒潮に乗り、房総半島南端に上陸され、ここにも麻や穀を植えられました。 この時、天富命は上陸地である布良浜の男神山・女神山という二つの山に、御自身の御先祖にあたる天太玉命と天比理刀当スをお祭りされており、これが現在の安房神社の起源となります。
御神水
後ろの吾谷山(あづちやま)から湧き出ているそうです。お水取りをするには受付で申込が必要とのことです。
授与所
オリジナル御朱印帳
御朱印
匠総祖神の朱印が押されています。
2017年04月03日
莫越山神社(千葉県南房総市)
莫越山神社 (なこしやまじんじゃ )
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県南房総市沓見241 鎮座
『延喜式神名帳』にある「莫越山神社(安房国・朝夷郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社
一の鳥居
社号標
二の鳥居
これより参道は直角に曲がり石段を登る。
説明板
手水舎
吽の狛犬
阿の狛犬
三の鳥居と拝殿
簡素な桧皮葺きである拝殿、 前面に「すだ椎」の古木が立ち、背面には楠の大木が茂っている。
本殿
社記によれば、初代神武天皇元年、天富命が忌部の諸氏を率いて、安房国に来臨し、東方開拓を進めた時、随神の天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命・彦狭知命を祀ったのが創祀。
大化の制においては国司の祭祀に預かったとされ、『延喜式神名帳』を経て、鎌倉時代初期の治承年間(1177年-1181年)に源頼朝が祈願、神田20町を寄進したという。
戦国時代、里見氏が領主の際も3石の寄進があり、江戸時代以降も3石の寄進があったという。代々領主の祈願所だった。
享保9年(1724年)、社殿造営の時に新宮に山中4ヶ所に祀られていた彦火火出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊を合祭し、天保年間(1831年-1845年)に相殿とした。
彦火火出見尊は梅大御神、豊玉姫命は子安大神、鸕鷀草葺不合尊は間子大御神と称され、敷物の祖神・安産育児の神・海猟海上安全の神として崇敬された。
明治6年(1873年)に郷社に列し、明治25年(1892年)12月、小松大将宮彰仁親王から社号額字の真筆が下賜され、現在拝殿正面に奉掲されている。
宮司さん宅にて御朱印を頂きました
あいにくの雨天での参拝でしたが暖かく迎えていただき感謝です
御朱印
2017年(平成29年)3月6日 参詣
千葉県南房総市沓見241 鎮座
『延喜式神名帳』にある「莫越山神社(安房国・朝夷郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社
一の鳥居
社号標
二の鳥居
これより参道は直角に曲がり石段を登る。
説明板
手水舎
吽の狛犬
阿の狛犬
三の鳥居と拝殿
簡素な桧皮葺きである拝殿、 前面に「すだ椎」の古木が立ち、背面には楠の大木が茂っている。
本殿
社記によれば、初代神武天皇元年、天富命が忌部の諸氏を率いて、安房国に来臨し、東方開拓を進めた時、随神の天小民命が祖神である忌部の神、手置帆負命・彦狭知命を祀ったのが創祀。
大化の制においては国司の祭祀に預かったとされ、『延喜式神名帳』を経て、鎌倉時代初期の治承年間(1177年-1181年)に源頼朝が祈願、神田20町を寄進したという。
戦国時代、里見氏が領主の際も3石の寄進があり、江戸時代以降も3石の寄進があったという。代々領主の祈願所だった。
享保9年(1724年)、社殿造営の時に新宮に山中4ヶ所に祀られていた彦火火出見尊・豊玉姫命・鸕鷀草葺不合尊を合祭し、天保年間(1831年-1845年)に相殿とした。
彦火火出見尊は梅大御神、豊玉姫命は子安大神、鸕鷀草葺不合尊は間子大御神と称され、敷物の祖神・安産育児の神・海猟海上安全の神として崇敬された。
明治6年(1873年)に郷社に列し、明治25年(1892年)12月、小松大将宮彰仁親王から社号額字の真筆が下賜され、現在拝殿正面に奉掲されている。
宮司さん宅にて御朱印を頂きました
あいにくの雨天での参拝でしたが暖かく迎えていただき感謝です
御朱印
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