神奈川県平塚市浅間町1−6 鎮座
一国一社の八幡宮・五之宮格平塚八幡宮
一の鳥居
西御池から一の鳥居を望む
市街地にありながらも自然が豊かで、境内にいる鴨やアヒルに心が癒されました。
東御池を泳ぐ錦鯉とアヒル
地震で縁のある新潟県長岡市(旧山古志村)よりの錦鯉
手水舎
二の鳥居
二の鳥居を守る狛犬(鳥居と共に青銅製)
境内社の神明社、諏訪社、若宮社の前を歩く鴨(アヒル?)
拝殿
本殿
平塚八幡宮は古くは鶴峯山八幡宮と称えられ、仁徳天皇の68年、この地方を襲った大地震に苦しむ人々の様を見かねた天皇が国土安穏を祈り、應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まりとされています。
その後、推古天皇の御代にも大地震があり、人々を案じられた天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営し、さらに天武天皇はこの地の税を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納されました。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した等、武人の信仰も篤く、特に徳川家康公は社領を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、伊奈備前守忠次へ命じて社殿を再建されました。
江戸期になると、平塚は日本橋から数えて8番目の宿場として賑わい、特に門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展し、旅人は道中の安全を祈り社頭は大いに栄えたそうです。
大政奉還の後、官の達示により社名を「八幡神社」と改称しましたが、平塚の街は海軍火薬工廠の建設などによって、商業、工業として成長し、明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王がご参拝にり、社頭に松樹をお手植えされ、御神池に緋鯉を放生され現在に至っています。
(由緒書きより抜粋)
浄銭池
社務所
御朱印をいただいたとき、由緒書きというよりも冊子・パンフレットなる立派なものをいただきました
フルカラーで御由緒・境内の案内・季節行事カレンダー祓詞などが載っています。
御朱印
だいたい墨書きは神社の名前が筆で書かれていますが、鎮地大神(ちんちおおかみ)と書かれていました。




