2017年08月15日

栃木県の磐裂根裂神 覚書

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虚空蔵菩薩

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妙見菩薩

磐裂神、根裂神
もともとは虚空蔵菩薩や妙見菩薩を本地仏としていたところがほとんどです。明治時代の神仏分離令により祭神を磐裂神、根裂神に改めたのだそうです。そして神社の名前も「磐裂神社」や「磐裂根裂神社」そして「星宮神社」に改められたそうです。
妙見菩薩は北極星を神格化、虚空蔵菩薩の化身が明けの明星と、星に関わる信仰です。

栃木県は日光山を開山した勝道上人が虚空蔵菩薩を本地仏とし、日光開山の際には磐裂神の助けがあったといわれているので、ほかの地域と比べると「磐裂神社」「星宮神社」の数が非常に多いのだそうです

磐裂根裂神社は日光の磐裂神社(明星天子)からの流れが多いのだと思います。
日光を開山した勝道上人が最初に祀った神社で、星宮でもあります。
(磐裂根裂神社=星宮とすると、分布はとても広くなりますし、星宮も権現と明神で意味合いが変わってくるので何ともいえないですが)
勝道上人は磐裂神・根裂神の夫婦神を崇拝していたので、それにあやかったのもあるかと思います。

つまり北極星信仰であり、日光東照宮の社殿が真南を向いている(北極星が社殿の真後ろから出る)というのもありますが、江戸時代以前から陰陽道が入っているのかと思われます。
磐裂根裂神社の名称は明治時代に改称されている神社が多く、それ以前は妙見・星宮などが多いようです。


下野国の場合、豪族が氏神を祀って神社が増えたケースはとても少ないです。
それほど神主大名である宇都宮氏の影響力があったのかもしれません。


磐裂根裂神社は日光から来ていますので、田心姫の川である思川周辺に多いです。
磐裂根裂神社の他に磐裂神社・根裂神社という名称の神社もあります。
旧今市市の岩崎神社もイワサクが岩崎になったとされています。

【栃木県内の磐裂・根裂 】
根裂神社 鹿沼市上石川町544
岩崎神社 日光市(旧今市市)岩崎526
磐裂神社 鹿沼市茂呂488
磐裂神社 鹿沼市下石川345
磐裂神社 鹿沼市日光奈良部町200
磐裂神社 鹿沼市下奈良部町291
磐裂神社 日光市安川町1358
磐裂神社 日光市所野814
磐裂神社 日光市上鉢石町1114-1
磐裂神社 日光市細尾町318-1
磐裂神社 日光市和泉914
磐裂神社 日光市(旧今市市)吉沢349
磐裂神社 日光市(旧今市市)室瀬258
磐裂神社 日光市(旧足尾町)遠下3-1
磐裂神社 下都賀郡壬生町下稲葉929
磐裂神社 下都賀郡壬生町上田1350
磐裂神社 下都賀郡壬生町中泉861
磐裂神社 栃木市藤岡町藤岡999
磐根神社 栃木市都賀町原宿1234
磐根神社 栃木市都賀町合戦場534
磐裂根裂神社 栃木市都賀町家中2456
磐裂根裂神社 鹿沼市亀和田町605
磐裂根裂神社 鹿沼市北赤塚町1053
磐裂根裂神社 下都賀郡壬生町福和田519
磐裂根裂神社 下都賀郡壬生町福和田1379
磐裂根裂神社 下都賀郡壬生町安塚1772
磐裂根裂神社 下都賀郡壬生町上長田405

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2017年04月09日

お釈迦様の生誕祝う花祭り

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川崎大師の花御堂

今回、川崎大師を訪れ 花祭りが行われていました。
私は寺付属の幼稚園だったので花祭りを行った記憶が薄っすらありました。
講堂でお釈迦様に甘茶をかけた後、その甘茶を頂きとても美味だったのを覚えています。


【4月8日花祭り】お釈迦様のお誕生日。
「花祭り」は、第二次世界大戦後に広まった呼び方で、もともとは
「灌仏会(かんぶつえ)」
「仏生会(ぶっしょうえ)」
「浴仏会(よくぶつえ)」
「降誕会(こうたんえ)」
「竜華会(りゅうげえ)」などと呼ばれていました。

様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作り、その中に灌仏桶を置いて、甘茶を満たします。灌仏桶の中央には”天上天下唯独尊”のポーズをとった誕生仏の像を置き、柄杓でお釈迦様の像に甘茶をかけて皆で祝います。
近年では、新暦四月八日にお祝いすることが多いそうで、それも四月八日前後だったりしています
※花御堂は、桜・木蓮・れんぎょうなどの花で飾られた小さなお堂です


お釈迦様、誕生のお話
シャーシャ族のマーヤー(摩耶)夫人は、神聖な白象が胎内に宿る夢を見ます。そのマーヤー夫人が臨月になり、出産のために故郷であるデーヴァダッハへ帰る途中、ルンビニー村で休息をとります。

そこには、美しいサーラ(沙羅)の樹がありました。その美しさに思わず枝に手を伸ばしたところマーヤー夫人の右脇からブッダが誕生します。

数多の神や人々から散華供養をうけるなか、ブッダはすっくと立ち上がり、東西南北にそれぞれ七歩ずつ歩いたあとに右手を上に挙げ、左手を下に指しながら『天上天下唯我独尊』に始まる誕生偈(げ)を唱えたということです。


誕生したとき、九頭の竜が天から芳しい甘露を吐いて産湯を満たしたという伝承がもとになっています。江戸時代までは、甘茶ではなく五色水と呼ばれる香水が使われていたようですが、しだいに甘茶を甘露に見立てて用いるようになったといわれています。

ちなみに、甘茶(あまちゃ)は、ユキノシタ科の落葉低木ガクアジサイの変種であるアマチャの、若い葉っぱから作られます。本来漢方薬の原料だとかで、アレルギーとか歯槽膿漏に効果があるのだそうです。

posted by かめ忍者 at 01:00| 栃木 🌁| Comment(0) | 由来・伝説・いわれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月12日

初夢

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年の節目にみる初夢は、一年の吉凶の夢占い
吉夢を誘い福を招き寄せ、また悪夢を流し去るために枕の下に敷く縁起物の絵を世に「宝船」と称します。

古くは節分の夜、江戸時代からは正月二日の夜の風習として、各地で伝承されてきました。
「長き世の遠の眠りの皆目覚めなみのり舟の音の良きな」
「なかきよのとをのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」
前から読んでも、後ろから読んでも同じ文句になることのような、回文歌を三回唱えてから寝ると、吉夢がみられるとされてます。

1月2日に行った宗任神社(茨城県)にて頂きました「宝船の絵」

実際に昔の資料などには
「大晦日から元日に見る夢」を初夢としているものも多いようですが
この他に
「元日の夜に見る夢」
「2日の夜に見る夢」
と諸説あり、江戸時代前半くらいまでは大晦日の夜説、江戸時代中期以降は2日の夜説が有力とされていたようです。

2日の夜説の理由としては、この日のみ売られる宝船の絵を枕下に敷いて寝ると縁起のよい夢が見られるという噂が広まったためです。
江戸時代にはこの宝船の絵を売るためだけに2日に働く人もいたほどです。

しかし現在では、元日の夜から2日に掛けてみる夢が初夢とされているようです。


縁起のいい初夢を表す言葉として「一富士、二鷹、三茄子」がありますね。

これは、徳川家康のお膝元であった駿河(現在の静岡県中央部)にちなんでいると言われ、中でも縁起を担ぐという意味で「富士山の高さや大きさ、鷹は鋭い足で掴み取る、茄子は何事も成し遂げる、と言われているそうです。

これには続きがあり「四扇五煙草六座頭(しせんごたばころくざとう)」となっています。

四の扇はその形が末広がりの幸を連想させ
五の煙草は煙が上に上がるように運が上がる
六の座頭は、剃髪した琵琶法師を指し「毛がない」が「怪我ない」に通じる事から家内安全を願ったものとされています。

posted by かめ忍者 at 09:25| 栃木 ☀| Comment(0) | 由来・伝説・いわれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月05日

二つのお岩稲荷

四谷怪談の名前の発祥地、四谷へ
この日本三大怪談の一つ、「四谷怪談」は鶴屋南北の全くの創作ではなく、事実からヒントを得てのお話だそうです。

地下鉄丸ノ内線「四谷三丁目」駅から外苑東通りを南へ行き、道幅4メートルあるかないかの裏通り住宅地に入ると、やがて道をはさんで斜め向かいに「於岩稲荷」と染め抜いた赤旗を立てた二軒の神社と寺院が斜め向かいに並んでいます。

一つは 「於岩稲荷田宮神社」
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もう一つは山門に 「於岩稲荷」 とある 「陽運寺」
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最初に於岩稲荷田宮神社へ
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東京都教育委員会の案内板 「都旧跡 田宮稲荷神社跡」
これによると、「東海道四谷怪談の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。 (略) 明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷神社と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。」

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拝殿前の周りに、於岩稲荷田宮神社の由来についての雑誌、新聞、その他印刷物の切り抜きが展示されていました。



次ぎに陽運寺に向かう
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お寺の山門には、お岩稲荷の提灯

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門をくぐるとすぐに「お岩さんと縁結び」の立て看板
これによると、「東海道四谷怪談」でお馴染みのお岩さん。
この怖いお岩さんが出てくる四谷怪談はじつは後世の人が創作した物語なのを知っていますか?
舞台であるここ、四谷は東海道ではないことからも後に作られた物語だというのがわかります。
江戸時代に実在した女性「お岩」は家庭をとても大事にした貞淑な妻だったとも伝えられています。
このお岩さんを祀る陽運寺は「えんむすび」の寺として全国に知られています。
(略)

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中に入ると、「お岩様由縁の井戸」 がありました。
お岩さんの井戸?井戸は「番町皿屋敷」お菊じゃないの・・・
田宮家の敷地内に本物の古井戸があるのだ。於岩稲荷田宮神社で貰った印刷物に写真が載っていた。

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井戸のそばの
「於岩稲荷水かけ福寿菩薩像に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら水を掛けると、あなたの厄が除かれる」 などと書いた立て札がある。 また、社殿の賽銭箱の横には、開運お岩様絵馬、叶玉が置いてあり、感じのいい露天休憩所もありました。
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旧 由来の事
江戸時代、文政八年七月 歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作、「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、
於岩様 庶民の畏敬を受け 当山その由縁の所として現在に至ったが 戦災に遇い 協議の上 本堂を栃木下野(しもつけ)から薬師堂を移築再建した 棟札には宝暦七丁丑とある。 於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉 墓は元鮫ヶ橋にあったが 現在は移転し 巣鴨新庚申塚にある。 当堂内には於岩様御尊像が祀られ 参拝者祈願の対象となり 境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。

 平成五癸酉年十月吉辰
 於岩稲荷 長照山 陽運寺
 総代、世話人一同

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新 由緒の事

お岩様縁(ゆかり)の祠って書いてある。




お岩さんが亡くなったのは寛永13年(1636年)

文政8年(1825年)に四世鶴屋南北の歌舞伎 「東海道四谷怪談」 の初演が大好評をおさめ、以来、出演者たちのお岩稲荷参りが始まった。

明治5年、お岩稲荷神社を、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家の名をとり田宮稲荷神社と改称。

ところが、明治12年に火災で焼失し、現在の中央区新川の田宮神社へ移転。
その間に陽運寺が四谷稲荷と称した。

昭和20年3月の東京大空襲で陽運寺も新川の田宮神社も焼失。
その折、市川左團次に 「四谷は遠くてお参りに行くのが大変だから、焼けちゃったついでに芝居町の近くに引っ越してきてくんねえ」と頼まれ
それを機に、中央区新川にある田宮家の土地に移転した。(左團次の土地という説もある)
しかし神社は移転しても、四谷の地はお岩さん伝説ゆかりの田宮家代々の土地
昭和6年(1931年)に東京都史跡に指定
新川の神社は残し昭和27年(1952年)に元の四谷左門町にも於岩稲荷神社を再建

こうしたいきさつから、もともとは、四谷の田宮家敷地内にお岩さんの手で祀ったお稲荷さんが、現在は、都教委の案内板のように、「お岩稲荷の旧地」 に変わってしまったのか・・・


新川の田宮神社や西巣鴨の妙行寺(法華宗陣門流)にあるお岩さんの墓の話は・・・いかに?
陽運寺は日蓮宗・・・田宮家は日蓮宗ではない?


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東海道四谷怪談【あらすじ】

物語の舞台は江戸の四谷。田宮家の娘である「お岩」は、浪人「伊右衛門」と結婚させられました。愛があっての結婚ではありませんでしたが、次第にお岩は伊右衛門に惹かれていきます。

しかし、近くに住んでいたお金持ちで伊藤喜兵衛という男の孫娘(お梅)が、男前であった伊右衛門に惚れ込んでしまったのです。「どうにかして孫娘の婿に」…と考えた喜兵衛は、お金に物を言わせ伊右衛門に言い寄ります。

初めは断っていた伊右衛門でしたが、段々とお金に目がくらんでいき、気持ちが変わっていきました。そこで喜兵衛は、お岩に少しずつ毒を盛るよう伊右衛門に指示。伊右衛門はそれを実行すると、知らずに毒を飲み続けたお岩の髪はバラバラと抜けおち、顔は醜くただれていきます。

その姿を鏡で見たお岩は絶叫し、錯乱状態に陥り、その果てにショックで死んでしまうのです。そうして幽霊となったお岩は、毎夜毎夜、伊右衛門の枕元で「うらめしや…うらめしや……」と立ち続ける…

このような話が一般的ではないでしょうか。

posted by かめ忍者 at 16:29| 栃木 ☁| Comment(0) | 由来・伝説・いわれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

神橋創建の伝説

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(下野新聞より)

創建1250年を迎えた日光二荒山神社の神橋で、創建伝説をイメージした丸太の橋「山菅(やますげ)の蛇橋(じゃばし)」がお目見えした。同神社が節目の年を記念して設置。「丸太を無事に渡り切ると、願いがかなうでしょう」としている。

伝説では奈良時代末期、人沙門勝道(日光開山の祖)一行が華厳の滝から流れる大谷川(だいやがわ)の激流に足止めされたとき、神人である深沙大王(神社大王)が右手に赤と青の大蛇を巻いて現れた。 「我は深砂大王である。汝を彼の岸に渡すべし」と二匹の大蛇を放つと、大蛇は絡み合って橋になったという。 一行が渡り終えると橋は消えて無くなっていたが、その後、その場所に丸太で橋を建て「山菅の蛇橋」と読んだのだそうだ。 これが神橋の元となる橋だということです。

この伝説にちなみ、同神社が神橋入り口に「山菅の蛇橋」を設置。日光杉の丸太3本でできており、長さ約2メートル、直径は1本約50センチ。丸太の間にはヤマスゲの鉢植えを置き、言い伝えをほうふつとさせている。


日光には日光東照宮や華厳の滝など、見所が沢山あるが、神橋にも立ち寄ってみては如何だろうか。 奈良時代の伝説を想像しながら、国宝で重要文化財で世界遺産で日本三大奇橋の神橋を渡るのもいいんじゃないでしょうか。

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posted by かめ忍者 at 07:07| 栃木 ☁| Comment(0) | 由来・伝説・いわれ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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