2017年11月28日

宗吾霊堂(千葉県成田市)

鳴鐘山 東勝寺
2017年(平成29年)9月30日参詣
千葉県成田市宗吾1−558 鎮座

「東勝寺」は真言宗豊山派の寺院で、正式名称は鳴鐘山東勝寺、ご本尊は「大日如来」です。
この東勝寺は「宗吾霊堂」と呼ばれることが多いようです。
DSC_3156.jpg
鳥居になるのでしょうか?

DSC_3155.jpg
手水舎


sakurasougo.jpg
佐倉宗吾は慶長十年(1605年)生まれと伝えられています。
公津村の名主であった木内惣五郎は、厳しい年貢に苦しむ農民を救うべく佐倉藩主に直訴しましたが聞き入れられず、止むなく時の四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣した折に直訴しました。
その訴えは聞き入れられましたが、直訴という大罪を犯した惣五郎は死罪となり、承応二年(1653年)公津ヶ原の刑場で子供とともに処刑されました。
ただ、事の経緯についてはあまり資料が残っていないため、詳しいことは分かりません。
宝暦二年(1752年)の百回忌に藩主・堀田正亮より「宗吾道閑居士」の法号を与えられ、以後「佐倉宗吾」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になってこの話が芝居になって上演されると、「義民・佐倉宗吾」の名は一気に有名になりました。

DSC_3154.jpg
立派な宗吾親子のお墓
宗吾とともに処刑された4人の子供が合葬されています。
宗吾は1653年将軍への直訴の罪により公津ヶ原刑場で磔刑、4人の子供も打首の惨刑に処せられました。

DSC_3153.jpg
大山門

DSC_3151.jpg
「宗吾霊堂」は義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)を祀るお堂で、
宗吾の霊像をご本尊としています。
明治8年に再建されたお堂が焼失した後、現在のお堂は大正2年に再建されました。

DSC_3148.jpg
扁額

平安時代に坂上田村麻呂が東国を平定した際、戦死者の供養のためのお堂を建てたのが始まりと言われ、“東国に勝利した”という意味で「東勝寺」となりました。

『中興第1世澄祐が1662(寛文2)年から境内の整備を行い、1668年までに本堂などの諸堂伽藍を建立した。
1767(明治14)年に大和国の長谷寺と京都の智積院から、常法談所の寺格を与えられている。
談所(檀林)とは法談を催すことができる有力寺院のことであるそうです。

大正10年に「宗吾供養堂」を再建することになった時、この地に東勝寺も移転してきました。



DSC_3152.jpg
鐘楼
「全国百鐘」の一つに数えられています。

DSC_3150.jpg
寺務所にて御朱印を頂ました

DSC_3671.jpg
御朱印

posted by かめ忍者 at 20:20| 栃木 ☁| Comment(0) | 卍千葉の寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月25日

坂東三十三観音28番札所 滑河山 龍正寺(千葉県成田市)

滑河山 龍正院(りゅうしょういん)
2017年(平成29年)9月29日参詣
千葉県成田市滑川1196 鎮座

DSC_3076.jpg
寺号標

DSC_3077.jpg
仁王門

DSC_3079.jpg
手水舎

DSC_3078.jpg
本堂

DSC_3089.jpg

DSC_3080.jpg
扁額

DSC_3081.jpg
扁額「観世音」

寺伝によれば、承和5年(838年)、当地の領主小田宰相将治の発願により、慈覚大師(円仁。第3代天台座主)を開基として創建されたとする。
天台宗の寺院で、本尊は一寸二分(約3.6cm)の十一面観世音菩薩。この本尊は、後に定朝作の一丈二尺(約3.6m)の観音像の胎内に納められて通称「滑河観音」と呼ばれています。
ところが、当寺の本堂裏から、白鳳時代の様式の、所謂「山田寺式」と呼ばれる瓦が出土した。ここは瓦を焼く窯跡とされた(「龍正院瓦窯跡」)が、瓦窯を自ら持つ「龍正院廃寺」という古代寺院跡とする資料もある。とすれば、出土した瓦の様式から、7世紀第4/四半期頃に遡る古代寺院の後身かもしれないという。
なお、永正13年(1516年)鋳造の鰐口に「下総州行河山勝福寺」とあるので、「勝福寺」と称していた時期もあるらしい。

DSC_3084.jpg
境内から寺務所への門

DSC_3085.jpg
納経所にて御朱印を頂ました
しもふさ七福神の毘沙門天の御朱印もありますが、ご縁がれば次回

DSC_3670.jpg
御朱印

posted by かめ忍者 at 08:28| 栃木 ☀| Comment(0) | 卍千葉の寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月11日

「平和の大塔」 成田山 新勝寺(千葉県)

成田山 金剛王院 新勝寺
2016年2月6日参詣
千葉県成田市成田1番地 鎮座

o0640048012481505541.jpg

1984(昭和59)年に建立された平和の大塔は、真言密教の教えを象徴する塔です。総高は58mで、1階は大塔入口、成田山の歴史展、写経道場各種受付があります。2階の明王殿には、大塔の御本尊不動明王、四大明王、昭和大曼荼羅、真言祖師行状図が奉安され、3・4階の経・法蔵殿には、ご信徒による掛仏、5階の金剛殿には五智如来が奉安されています。

img006.jpg

DSC_0307-1.jpg


posted by かめ忍者 at 20:57| 栃木 ☁| Comment(0) | 卍千葉の寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

「薬師堂」 成田山 新勝寺 歌舞伎役者市川団十郎代々の屋号発祥の地

成田山 金剛王院 新勝寺
2016年2月6日参詣
千葉県成田市成田1番地 鎮座
(薬師堂・千葉県成田市上町562 鎮座)

3ZmICUbQ.jpg

薬師堂は、明暦元年(1655年)に成田山本堂として、現在の大本堂のある場所に建立されました。
現在、薬師堂は成田山境内になく、飛び地にある為 参拝者が少ない為か?2014年3月より閉扉されていいます。
平和の大塔横に開基1080年の記念事業として 薬師殿(仮称)を建立中で、現在平和の大塔に仮安置されている 薬師如来や十二神将が奉安されるものと思われます。
(薬師如来、御朱印は平和の大塔にて頂きました)

時代劇でお馴染みの「水戸黄門」で知られる水戸光圀が参詣し、初代市川團十郎が子宝祈願をした由緒ある御堂です。

初代團十郎は、歌舞伎の舞台に「暫」や「鳴神」に代表される荒事を取り入れ、その舞台は大変な人気となりました。
しかし、跡継ぎになかなか恵まれませんでした。
初代團十郎の父親が、成田市の幡谷出身であり、父祖以来信仰している成田山の当時の本堂である薬師堂で一心に子授けを祈願します。
すると見事、待望の長男を授かったのです。

img03.jpg

薬師堂は、この時初代團十郎が二代目誕生を祈願した道場であり、初代の子である九蔵が初舞台『不動』を踏んだ後に御礼詣りした、成田屋の不動信仰に縁の深い御堂なのです。

初代團十郎は、お不動様への祈願が成就して長男を授かったことに感謝を表した「兵根元曽我(つわものこんげんそが)」を親子で共演し、この舞台が大当たりします。
この親子共演を機に市川家は、「成田屋」の屋号を使うようになったのです。

DSC_0306-1.jpg


posted by かめ忍者 at 09:28| 栃木 ☀| Comment(0) | 卍千葉の寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月09日

「光明堂」 成田山 新勝寺(千葉県成田市)

成田山 金剛王院 新勝寺
2016年2月6日参詣
千葉県成田市成田1番地 鎮座

10632308_953485561398584_1820882384_n.jpg

130814_18.jpg

光明堂は元禄十四年(1701年)に当時の本堂として建立されたもので、別名「元禄の本堂」と呼ばれ、大本堂の裏手の小高い場所に額堂や開山堂、清瀧権現堂などとともに建っています。

成田山の本堂の歴史は建立と移転の歴史です。
成田山新勝寺は、朱雀天皇から平将門の乱を平定せよとの勅命を受けた寛朝大僧正が、護摩祈祷の法でこれを平定した天慶三年(940年)の開山ですが、その後長く忘れられたお寺でした。
幾度かの変遷を経て現在の地に遷座した後に、建立された本堂としては、現存する最古のものが明暦元年(1655年)に建立された現在の「薬師堂」です。
その後江戸深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって建て替えられた本堂が、この光明堂です。
約一世紀半の間にさらに参詣客が増え、手狭になったこの本堂は、安政五年(1858年)に建て替えることとなり、現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年間、本堂としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と呼ばれるのは、こうした歴史があるからです。

DSC_0305-1.jpg


posted by かめ忍者 at 10:06| 栃木 ☔| Comment(0) | 卍千葉の寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人気ブログランキング