2017年(平成29年)9月30日参詣
千葉県成田市宗吾1−558 鎮座
「東勝寺」は真言宗豊山派の寺院で、正式名称は鳴鐘山東勝寺、ご本尊は「大日如来」です。
この東勝寺は「宗吾霊堂」と呼ばれることが多いようです。

鳥居になるのでしょうか?

手水舎

佐倉宗吾は慶長十年(1605年)生まれと伝えられています。
公津村の名主であった木内惣五郎は、厳しい年貢に苦しむ農民を救うべく佐倉藩主に直訴しましたが聞き入れられず、止むなく時の四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣した折に直訴しました。
その訴えは聞き入れられましたが、直訴という大罪を犯した惣五郎は死罪となり、承応二年(1653年)公津ヶ原の刑場で子供とともに処刑されました。
ただ、事の経緯についてはあまり資料が残っていないため、詳しいことは分かりません。
宝暦二年(1752年)の百回忌に藩主・堀田正亮より「宗吾道閑居士」の法号を与えられ、以後「佐倉宗吾」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になってこの話が芝居になって上演されると、「義民・佐倉宗吾」の名は一気に有名になりました。

立派な宗吾親子のお墓
宗吾とともに処刑された4人の子供が合葬されています。
宗吾は1653年将軍への直訴の罪により公津ヶ原刑場で磔刑、4人の子供も打首の惨刑に処せられました。

大山門

「宗吾霊堂」は義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)を祀るお堂で、
宗吾の霊像をご本尊としています。
明治8年に再建されたお堂が焼失した後、現在のお堂は大正2年に再建されました。

扁額
平安時代に坂上田村麻呂が東国を平定した際、戦死者の供養のためのお堂を建てたのが始まりと言われ、“東国に勝利した”という意味で「東勝寺」となりました。
『中興第1世澄祐が1662(寛文2)年から境内の整備を行い、1668年までに本堂などの諸堂伽藍を建立した。
1767(明治14)年に大和国の長谷寺と京都の智積院から、常法談所の寺格を与えられている。
談所(檀林)とは法談を催すことができる有力寺院のことであるそうです。
大正10年に「宗吾供養堂」を再建することになった時、この地に東勝寺も移転してきました。

鐘楼
「全国百鐘」の一つに数えられています。

寺務所にて御朱印を頂ました

御朱印